PNMとトリニダード独立運動
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「エリック・ウィリアムズ」の記事における「PNMとトリニダード独立運動」の解説
1956年1月15日には政党人民国家運動 (People's National Movement, PNM) を創設する。それまで講義による活動は教員教育文化協会(公式の教員組合の代わりに1940年代に設立されたグループ)の分派である政治教育運動 (PEM) 後援で行っていた。PNM の最初の文書は憲法であった。当時の他の政党と違い PNM は高度に組織された階級的な体制を採った。第2の文書は、人民憲章だった。そこでは党が自らをそれまでのトリニダードの政治の標準であった一時的な政治集団から切り離すよう努めた。 同年9月24日、立法議会の選挙が行われ、PNM は16人の現職候補のうちの6人を破り、24改選議席中13議席を獲得した。総督のエドワード・ビーサムの反対にかかわらず、31議席中の少数派ではあったが、ウィリアムズは植民地相から5人の議員を指名することが認められた。これにより彼は議会の多数派を得て首相に選ばれ7人の閣僚全てが認められた。 当時は脱植民地化の波が進んでおり、イギリス領西インド諸島の西インド連邦としての独立が決定された。イギリス領ギアナとイギリス領ホンジュラスは連邦に加盟しない方を選び、ジャマイカとトリニダードが主な構成国として残された。 首相としては、分離主義派を排斥し、同時に欧米帝国主義の支配からの脱却を目指す点で一貫しており、トリニダードの独立運動を指導した。カリブ海域では一方にプエルトリコのように列強への同化を求めるものもあれば、独自の社会主義を展開するキューバもあり、外交面での調整は困難であった。フィデル・カストロについてはその民族主義の意義を認めながら全体主義的傾向を批判した。 1962年トリニダード・トバゴ共和国として独立を達成。引き続き首相の座にとどまり同国初代首相となり、1981年に亡くなるまで務めた。
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