『人民の護民官』
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「フランソワ・ノエル・バブーフ」の記事における「『人民の護民官』」の解説
1794年9月3日、バブーフは『出版自由新聞(Le Journal de la liberté de la presse)』(同年10月5日に『人民の護民官(Le Tribun du peuple)』と改称)を発刊、同時に古代ローマの護民官・グラックス兄弟の名を取って「グラキュース・バブーフ(Gracchus Babeuf)」と自称した。 グラックス兄弟は、公有地の占有面積を制限するリキニウス・セクスティウス法の復活を主張して殺害された人物であった。平等社会を目指す思想と、改革に命を賭ける覚悟とを示すため、バブーフは自らを彼らになぞらえたと思われる。 1795年11月30日付け『護民官』第35号にて、バブーフは「平民派宣言(Manifeste des Plébéiens)」と題する一文を掲載した。 彼は「土地は万人のものである」との認識に立ち、個人が必要以上の土地を私有する行為を「社会的窃盗」と指弾。同時に、譲渡権や相続権も否定した。これに代わる制度として彼が提示したのは、物品の共同管理に基づく配給行政であった。すなわち、全ての人間、及び生産品に関する情報の登録を義務付け、現物生産品を国庫に納めさせたのち、改めて平等に分配するというものである。彼は、この制度は既にフランス国内における12の軍隊、総勢120万人に適用されており、実現の可能性は実証済みであると主張した。
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