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元和2年 (1616年)加賀藩は、能登に七木保護の制を布告。自由な伐採を禁じた。 寛永年間 (1624年 - 1643年) 加賀藩は、漆の木の植林を奨励。 享保年間 (1716年 - 1735年) 塗物に彫刻を施す技巧が開発。輪島沈金の始まりとなる。 文政年間 (1818年 - 1829年) 会津塗の蒔絵師安吉から蒔絵の技法を習得。 明治25年 (1892年) 目つぶしカンナが、発明される。 明治36年 (1903年) 蒸気機関を動力とした轆轤(ろくろ)が導入される。
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1975年七尾仏壇協同組合設立。 1978年7月22日 伝統的工芸品指定。 2006年10月27日 「七尾仏壇」の商標登録認定。
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函石浜遺跡発見に関係するできごとの抜粋年月日概要1874年(明治7年)12月~1879年(明治12年)9月 稲葉宅蔵が函石浜遺跡を発見したと推定される。 1875年(明治8年) 6月12日 織田幾二郎が久美浜郵便局長に就任。 1896年(明治29年) 8月 佐藤伝蔵が「陸奥亀ヶ岡の地形地質及び発見物-附石器時代の海嘯」を発表。稲葉宅蔵はこれを読み、函石浜遺跡で蒐集したものが石器である可能性に気づいたと推定されている。 1898年(明治31年) 3~5月 3月から4月頃、織田幾二郎と稲葉宅蔵の兄・市郎右衛門が東京人類学会へ入会する。4月から5月にかけて、佐藤伝蔵が丹後を訪問。稲葉兄弟は5月21日から23日にかけて、佐藤の依頼を受け、網野銚子山古墳や周辺遺跡の踏査と写真撮影を行った。 6月28日 稲葉宅蔵(東園)が、5月21日から23日にかけて佐藤伝蔵に同行した際の報文「丹後網野附近遺跡探究紀行」のなかで、函石浜遺跡の発見を報告。『東京人類学会雑誌』に掲載された。 11月4日 織田幾二郎が、函石浜遺跡で弥生土器を採集した。 11月28日 『東京人類学会雑誌』に「但馬に於ける古墳」とともに「函石海浜拾古石器」が掲載された。 1899年(明治32年) 11月28日 佐藤伝蔵が、函石浜遺跡で出土した石鏃にサヌカイトが含まれていることを指摘する「『サヌカイト』製の石鏃」を発表。 1902年(明治35年) 4月18日 稲葉宅蔵、織田幾二郎が函石浜遺跡で大型の石錘を採集する。 5月24日 織田幾二郎が函石浜遺跡で「貸泉」を採集。当時の久美浜町長・今西喜代蔵が同行していた。 1903年(明治36年) 6~11月 織田幾二郎が函石浜遺跡で6月4日に鹿の角を採集。同月9日には弥生土器を採集した。織田はさらに8月16日に山田三省とともに砥石を採集し、11月9日には弥生土器と土師器を採集、11月24日に数人がかりで弥生土器の採集を行った。 1904年(明治37年) 4月20日 織田幾二郎が『東京人類学会雑誌』に函石浜遺跡についての報文「京都府熊野郡の遺跡」を掲載、1903年(明治36年)3月に自宅別荘に「陳列館」を設置したことを紹介した。後に「織田考古館」と名付けられることとなるこの陳列館には、翌5月30日には豊岡中学校の堀内清が足を運び、7月2日に豊岡中学校5年生が遠足で見学した。 1907年(明治40年) 4月 4月16日に大野延太郎が丹後を訪れ、稲葉、織田とともに函石浜遺跡で遺物を表採した。4月22日、織田幾二郎が、函石浜遺跡の「鉄山」で弥生土器を採集。 4~5月以降 京都府教育会熊野郡部会が「織田考古館案内」と「観覧券」を作成する。 6月20日 大野延太郎(雲外)が函石浜遺跡と銅鏃・鉄鏃・石鏃の図を掲載した報文を発表。大野はこの後、1911年(明治44年)12月10日の報文でも函石浜遺跡で出土した弥生土器の図を掲載している。 1909年(明治42年) 11月27日 織田幾二郎が函石浜遺跡で石剣を採集する。 1910年(明治43年) 5月20日 稲葉宅蔵(東園)の報文「丹波熊野郡海部発見の瓢形大土器」が『東京人類学会誌』に掲載される。 9月20日 坪井正五郎が「菅玉曲玉の未完成品」に函石浜遺跡で出土した菅玉未製品の図を掲載する。坪井はこの約1ヶ月前の8月12日に、織田考古館を訪問していた。 1912年(明治45年) 11月16日 織田考古館の資料を京都大学へ寄贈。京都大学の松山義通、浜田耕作、植田寿蔵が資料受け取りを担った。同年12月1日、織田考古館は閉館した。 1915年(大正4年) 7月 稲葉市郎右衛門、死去。 1918年(大正7年) 4月1日 近重真澄の報文「東洋古銅器の化学的研究」に、函石浜遺跡で出土した銅鏃の成分分析結果が掲載される。 4 稲葉宅蔵、死去。 年内 織田幾二郎同行のもと、梅原末治が函石浜遺跡で試掘調査を行った。 1920年(大正9年) 5月15日 函石浜遺跡で箱型石棺が発掘される。出土遺物は京都府によって帝室博物館へ渡る。 6月25日 『京都府史跡勝地調査会報告』第二冊刊行。梅原末治による函石浜遺跡の調査報告が掲載される。同年、内務省が函石浜遺跡の測量調査を行う。 1921年(大正10年) 3月3日 内務省告示第38号によって、「函石浜遺物包蔵地」が史跡指定を受ける。 1922年(大正11年) 5月31日 『京都府史跡勝地調査会報告』第三冊刊行。梅原末治による箱型石棺の調査報告が掲載される。 1923年(大正12年) 12月20日 『京都府熊野郡誌』刊行。編纂委員に故稲葉市郎右衛門、編纂主査に故稲葉宅蔵および織田幾二郎らが名を連ねた。函石浜遺跡に関する記述は、第拾章「名所舊蹟として、久美浜の他の先史時代の遺跡とともに7ページにわたって記載されている。 1925年(大正14年) 5月23日 但馬震災発生。 1926年(大正15年) 6月 函石浜遺跡に、「史跡函石濱遺物包含地」の石碑が建立される。 9月20日 『京都帝国大学文学部考古学研究報告』第七冊「日本発見銅剣銅鉾及銅鏃聚成図録」で、函石浜遺跡出土の銅鏃が紹介される。 1927年(昭和2年) 3月7日 北丹後地震(丹後震災)発生。織田幾二郎は息子のもとに身を寄せる。 8月 直良信夫、松木勇とともに函石浜遺跡を調査する。直良はその後、1929年(昭和4年)にも函石浜遺跡と近在の浜詰遺跡を訪れている。 1929年(昭和4年) 11月 直良信夫、松木勇気が、報文「丹後函石浜遺跡の査報」を考古学雑誌に掲載。出土遺物の検討が行われる。直良信夫はこの後、1930年(昭和5年)11月に「山陰道発見の縄文土器」で、1931年(昭和6年)2月3月に「石金併行期遺跡発見の鉄鏃について」で、11月に「日本海海岸における石器伴出銅鏃の研究」で、函石浜遺跡の出土遺物を報告し、その都度、遺物の検討や図化が行われた。 1939年(昭和14年) 1月18日 織田幾二郎、死去。
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「日本ボクシングコミッションにおける健保金問題」の記事における「関係年表」の解説
年月日出来事1957年 7月1日 JBCが「健康管理基金」制度を導入。 2008年 〜12月31日 文部科学省の指導により、収支計算書の負債の部で扱っていた健保金を収入として扱うようになる。 2013年 2月22日 JBCは財務省関東財務局理財第3課に「健康管理見舞金制度への変更」を提出。選手のファイトマネーからの徴収比率を3パーセントから2パーセントに減らし、治療費の自己負担額の補填を全額から上限10万円未満まで引き下げる。 3月18日 JBCは協会に対し、「健康管理事業の改正について」を提出。 5月25日 JBCは協会に対し、「試合役員費および健康管理事業の改正について」を提出。 6月頃 JBCは協会事務局長のY12から健康管理事業の改正が理事会で承認された旨、口頭で報告を受ける。 7月1日 JBCは公益法人制度改革に伴い、理事会決議をもって一般財団法人化の方針をとり、「一般財団法人 日本ボクシングコミッション」と名称を変えて移行法人となる。関東財務局理財第3課に健康管理事業の新制度移行についての書面を提出。JBCの評議員を務めていた日本プロボクシング協会役員・会長・前会長および中日本・西日本・西部日本の各地区協会会長は、協会会長のY11がJBC理事となり、協会前会長が留任したほかは、評議員を外れ、JBCの財産の処分等についての議決権を失う。 8月15日 トクホン真闘ジム会長の佐々木隆雄と同ジムマネージャーの舟木肇が連名でJBC理事長のY2に要望書を提出。一方的に通知された一般財団法人化と健康管理基金制度廃止について、健保金残高や今後の使途等の説明を求める。 8月28日 当時のJBC本部事務局長Y6より佐々木へ、特例民法法人から一般財団法人への移行、健康管理基金制度から健康管理見舞金制度への移行についてはいずれも協会の了解を得ている旨の回答書を送付。 9月17日 横浜さくらジム会長の平野敏夫を連絡先として20のジムが連名で、JBCおよび協会に要望書を提出。協会理事以外には説明なく進められた「不当な決議」として制度の無効化を訴える。 9月21日 協会の緊急理事会で、JBCのY6・Y3・Y5が、健保金はJBCの収入であり、職員の人件費にも使われるなどと説明し、議論が紛糾。調査のための第三者委員会を設置する方向性が確認される。 10月〜 JBCは協会からの質問や資料提出要請を受け、会計資料等を提示した上で協議を重ねる。 12月 6月末時点で約1億円あった健保金残高が6000万円弱に激減。 2014年 1月6日 2013年12月20日の後楽園ホールでの試合後に急性硬膜下血腫で開頭手術を受けて危篤状態だった選手が死亡。 1月15日〜 協会主導で三菱東京UFJ銀行神保町支店に健保金専用口座を設け、JBCがこの時点の残高とする5906万5905円を入金させる。この額はすでに「治療費支出、医師委託料、人件費、会議費、消耗品費等の経費」が差し引かれたもの。 2015年 1月1日 選手からの健保金徴収を停止。 ? Y2が健保金を治療費のみに使うことを約束。 8月10日 JBCと協会の連絡協議会でY2は、JBCが健保金を訴訟費用の支払いに当てていたことを示唆。 2016年 4月12日 後楽園ホールの興行に出場した選手が試合後、急性硬膜下血腫のため開頭手術を受ける。 7月8日 健保金調査委員会委員長で緑ジム会長の松尾敏郎が「ボクサーの権利を守る会」を結成し、Y1とJBCを宛先とした署名運動を開始。 7月11日 東日本ボクシング協会が健保金の運用について説明を求める意見書をJBCに提出。 7月12日 後楽園ホールの興行に出場した選手が試合後、急性硬膜下血腫のため開頭手術を受ける。 7月13日 日本プロボクシング協会が、11日付で提出された東日本ボクシング協会の意見書と同様の意見書を提出する意思を表明。 7月30日 松尾は8月10日付でY3らを東京地方検察庁に刑事告発し、JBCに対しては民事で損害賠償を請求することを予告。JBCは協会に対し、松尾の処分を迫るとともに、自らライセンス取り消し、名誉毀損に対する刑事・民事訴訟をほのめかし、刑事告発した場合は虚偽告発罪で反訴する意向を伝える。 8月3日 東日本・中日本・西日本・西部日本の各地区協会の会長がJBCのY2らと協議。Y3の辞任が決まる。 8月5日 JBCと協会の協議で、JBCから健保金についての追及を停止するよう合意を迫られたため、協会側が異議を唱え、協議は決裂。Y3は辞任を撤回。 8月7日 東日本・中日本・西日本・西部日本の4協会が連名で、JBC理事の津江章二に緊急理事会の開催を要請。健保金の真相解明などについて協議を求める。津江は翌日、緊急理事会の開催をB3に要請。 8月23日 JBCの緊急理事会で津江・Y11・Y1・Y2・Y3・Y7の6理事による協議の結果、6議案をすべて多数決で否決。 9月7日 JBCと協会の連絡協議会において、協会は改めて健保金に関する共同調査委員会の立ち上げ、安河内の復帰やY3の辞任等の討議、協会側が推薦する理事の増員を求める。
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「御霊神社 (五條市霊安寺町)」の記事における「関係年表」の解説
養老元年(717年):井上内親王誕生。父、聖武天皇。母、県犬飼宿禰廣刀自。 養老5年(721年):井上内親王(5歳)、斎王として伊勢皇大神宮に出仕。 天平16年(744年):井上内親王(28歳)、斎王解任。 天平19年(747年):井上内親王(31歳)、白壁王と結婚。 天平宝宇5年(761年):井上内親王(45歳)、他戸親王誕生。 宝亀元年(770年):白壁王(62歳)、光仁天皇に即位。井上内親王(54歳)も皇后に。 宝亀2年(771年):他戸親王(11歳)、立皇太子。 宝亀3年(772年):巫蠱の罪により、井上皇后(56歳)・他戸皇太子(12歳)を廃す。 宝亀4年(773年):光仁天皇の姉・難波内親王を厭魅した罪に問われ、井上内親王(57歳)・他戸親王(13歳)、宇智郡没官の宅に流罪幽閉。 宝亀6年(775年):4月25日(27日とする説もある)、井上内親王(59歳)・他戸親王(15歳)母子ともに逝去。 宝亀7年(776年):都に天災飢饉相次ぎ、母子の祟りと恐れられ、600人の僧に読経が命じられる。 延暦4年(785年):藤原種継暗殺の黒幕として早良皇太子を廃し、淡路へ配流中に憤死。 延暦19年(800年):葛井王が下向。井上内親王を皇后に復し、早良親王に崇道天皇を追称する。加えて同地に霊安寺を建立。御霊神社もこの頃に創祀されたと考えられている。 延暦24年(805年):都で150人の僧が大般若経を読経し、母子の霊を慰める。霊安寺に稲3000束、調綿・庸綿各150斤が下賜される。 弘仁7年(816年):霊安寺・御霊神社に太政官符として稲4000束を納む。 貞観5年(863年):京都神泉苑にて御霊会が営まれる。 天永3年(1112年):大般若経を納む(現在満願寺所蔵530巻)。 明治5年(1872年):廃仏毀釈・神仏分離。所蔵の仏像・経文等は満願寺へ。 明治8年(1875年):御祭神1100年祭斎行。 昭和19年(1944年):社格県社に昇格。 平成2年(1990年):鎮守の森コンサート第1回開催。第20回まで続く。 平成29年(2017年):御祭神生誕1300年祭を予定。
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1911年(明治44年)1月17日 - 英ヴィッカースにて「金剛」(伊号装甲巡洋艦)起工。11月4日 - 横須賀海軍工廠にて「比叡」(卯号装甲巡洋艦)起工。 1912年(大正元年)3月16日 - 神戸川崎造船所にて「榛名」(第2号装甲巡洋艦)起工。3月17日 - 三菱長崎造船所にて「霧島」(第3号装甲巡洋艦)起工。 5月18日 - 「金剛」進水。 11月21日 - 「比叡」進水。 1913年(大正2年)8月16日 - 軍艦「金剛」竣工、引渡、日本へ回航される。11月15日 - 「金剛」横須賀到着、横須賀鎮守府入籍。 12月1日 - 「霧島」進水。 12月14日 - 「榛名」進水。 1914年(大正3年)7月28日 - 第一次世界大戦勃発、8月には日本も参戦。8月4日 - 軍艦「比叡」竣工、引渡、佐世保鎮守府入籍。 8月23日 - 「金剛」、太平洋航路警備のためミッドウェー方面哨戒出撃。 9月14日 - 「比叡」、東シナ海方面にてドイツ東洋艦隊に対し警備行動。 1915年(大正4年)4月19日 - 軍艦「榛名」竣工、引渡、横須賀鎮守府入籍。4月19日 - 軍艦「霧島」竣工、引渡、佐世保鎮守府入籍。 1916年(大正5年)4月9日 - 「榛名」、青島方面警備行動のため出撃。4月9日 - 「霧島」、中国方面警備行動のため出撃。 5月31日 - ユトランド沖海戦、英独の新鋭巡洋戦艦撃沈される。 1920年(大正9年)9月20日 - 「榛名」、主砲腔発事故。 1921年(大正10年)11月11日 - ワシントン海軍軍縮条約により天城型巡洋戦艦廃艦決定。 1924年(大正13年)3月 - 「榛名」第一次近代化改装着手。 1927年(昭和2年)5月12日 - 「霧島」第一次近代化改装着手。 1928年(昭和3年)7月28日 - 「榛名」、第一次近代化改装完了。10月20日 - 「金剛」第一次近代化改装着手。 1929年(昭和4年)10月15日 - 「比叡」第一次近代化改装着手。 1930年(昭和5年)4月16日 - 「霧島」、第一次近代化改装完了。4月24日 - ロンドン海軍軍縮条約により「比叡」工事中断し船体現状保存工事に着手。 1931年(昭和6年)6月1日 - 本級4隻全て艦種類別を「戦艦」に変更、「巡洋戦艦」の類別廃止。9月20日 - 「金剛」第一次近代化改装完了。 1933年(昭和8年)1月1日 - 「比叡」、類別を「練習戦艦」に変更、武装を一部撤去。9月?日 - 「榛名」、第二次近代化改装着手。 1934年(昭和9年)6月1日 - 「霧島」、第二次近代化改装着手。9月30日 - 「榛名」、第二次近代化改装完了、佐世保鎮守府へ移籍。 1935年(昭和10年)6月1日 - 「金剛」、佐世保鎮守府へ移籍、第二次近代化改装着手。 1936年(昭和11年)1月15日 - 日本、ロンドン海軍軍縮条約脱退。6月8日 - 「霧島」、第二次近代化改装完了。 1937年(昭和12年)1月8日 - 「金剛」、第二次近代化改装完了。4月1日 - 「比叡」、近代化改装着手。 1940年(昭和15年)1月31日 - 「比叡」、近代化改装完了。 1941年(昭和16年)11月18日 - 「比叡」「霧島」を含む機動部隊、単冠湾に向けて横須賀出港。11月26日 - 「比叡」「霧島」を含む機動部隊、単冠湾出撃。 12月4日 - 「金剛」「榛名」、馬来上陸支援のため馬公出撃。 12月8日 - 真珠湾攻撃、太平洋戦争勃発。 12月10日 - マレー沖海戦、「金剛」「榛名」接敵できず。 12月20日 - 「金剛」「榛名」、比島上陸作戦のためカムラン湾出撃。 1942年(昭和17年)1月6日 - 「金剛」「榛名」、蘭印作戦支援のため馬公出撃。1月17日 - 「比叡」「霧島」、ラバウル方面攻略のためトラック出撃。 2月25日 - 4隻揃って機動部隊編入、インド洋作戦。 3月1日 - ジャワ近海にて米駆逐艦「エドソール」を砲撃により撃沈。 3月7日 - クリスマス島砲撃。 6月5日 - ミッドウェー海戦本級4隻とも出撃。 7月14日 - 比叡と霧島は第三戦隊から除かれ、第十一戦隊を編制。 8月24日 - 「比叡」「霧島」、第二次ソロモン海戦に参加。 10月13日 - 「金剛」「榛名」、ガダルカナル島ヘンダーソン基地艦砲射撃。 10月26日 - 南太平洋海戦、本級4隻参加。 11月13日 - 「比叡」「霧島」第三次ソロモン海戦に参加、「比叡」被弾し舵機故障。 11月14日 - 「比叡」、自沈処分。 11月15日 - 「霧島」、第三次ソロモン海戦にて米戦艦2隻による砲撃で撃沈される。 12月20日 - 「比叡」「霧島」除籍、第十一戦隊解散。 1943年(昭和18年)1月31日 - 「金剛」「榛名」、ガダルカナル撤収を支援。 1944年(昭和19年)6月20日 - マリアナ沖海戦、「金剛」「榛名」は他の戦艦とともに前衛部隊。10月25日 - レイテ沖海戦、「金剛」「榛名」サマール沖で敵空母群砲撃。 11月21日 - 「金剛」、台湾海峡にて米潜水艦「シーライオン」により撃沈される。 1945年(昭和20年)1月1日 - 第三戦隊解散。1月20日 - 「金剛」除籍。 2月10日 - 榛名は役務を佐世保鎮守府警備艦に定められる。 4月20日 - 榛名は佐世保鎮守府警備艦の役務を解かれ、佐世保鎮守府第四予備艦に定められる。 6月1日 - 榛名は役務を佐世保鎮守府特殊警備艦に定められる。 7月28日 - 「榛名」、江田島小用沖にて米軍機により大破着底。 8月15日 - 榛名は佐世保鎮守府第四予備艦に定められる。 11月20日 - 「榛名」除籍。 1946年(昭和21年)7月4日 - 「榛名」の浮揚解体完了。
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963年12月 高麗、宋の年号を分暦。 983年 6月10日 遼、統和と改元し、国号を大契丹とする。 10月24日 契丹、高麗を攻める。 985年 7月1日 契丹、高麗を攻める。 992年 12月 契丹、高麗を攻める。 993年 1月17日 契丹、高麗と講和。 10月3日 高麗、契丹に使を遣わす。 994年 2月 高麗、契丹の年号を分暦。 1002年(穆宗5年6月)耽羅山大噴火 1005年(穆宗8年) 全州節度仕を設置 1007年(穆宗10年) 耽羅で海中から瑞山が出現 1009年 穆宗、殺害される。 1010年 8月21日 契丹、高麗を攻める。
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「日本ボクシングコミッション事件」の記事における「関係年表」の解説
年月日出来事2006年 4月1日 安河内剛、日本ボクシングコミッション (JBC) 本部事務局長に就任。 2011年 4月18日 安河内を誹謗中傷する内容の匿名の怪文書が全国のボクシングジムおよびJBC各事務所に送付される。 4月19日 専務理事のB2がJBCの関西事務所で怪文書の添付写真に写った女性職員に事情聴取。女性職員は怪文書について謝罪、安河内との愛人関係を否定し、辞意を表明。 4月22日 東京試合役員会会長・B11の主導で、B5らがあらかじめ用意した怪文書のコピーを同役員会で配付。B11と試合役員のB12は、安河内がJBCを辞めるべきだと繰り返し主張。 5月9日 「JBC東京試合役員・事務局員合同調査委員会」が「調査報告書」を代表理事のB1に提出。この名義は架空のもので、B5ら職員5名が作成。 5月10日 「財団法人日本ボクシングコミッション 東京試合役員会・事務局員一同」が「真相究明と安河内事務局長の解任を求める連判状」をB1に提出。 5月12日 B2が各地区事務局長・職員およびB11に調査委員会設置などを説明した際、B11は大声で安河内に自主退職を迫る。B5も加勢。 5月16日 JBCが組織内弁護士である谷口好幸を事務局長として外部弁護士の堤淳一・俵谷利幸ら5名で構成される調査委員会を設置。安河内はこの日、5月10日から1か月の休職を命じられ、B2が事務局長代行となる。 5月19日 B11が「財団法人日本ボクシングコミッション東京試合役員会会長 B11」名義の書面「公正なる調査を求める申し入れ」をB1に提出。 5月24日 B5が書面「安河内事務局長の言動と行動」をJBCに提出。 5月26日 B6が安河内から受けたとするパワーハラスメント行為を書面でJBCに提出。 5月31日 B5・B8・B9および関西事務局員のB10がJBCに無断で記者会見を開き、報道関係者と日本プロボクシング協会加盟各ジムに書面「財団法人日本ボクシングコミッションに関する公益通報について」を提出。安河内ほか3名が飲食代1万7180円を経費として処理した行為が背任罪に当たると主張。理事のB4は記者会見でJBCに代わる新団体設立の意向を表明。B11が「財団法人日本ボクシングコミッション東京試合役員会会長 B11」名義の書面「JBC試合役員会が、安河内事務局長の解任を求め、公益通報職員を支持する意見を表明」でこれを援護し、安河内の解任を求める意見書をB1と各理事に提出する旨を報道各社に発表。 6月2日 B11が「財団法人日本ボクシングコミッション東京試合役員会会長 B11」名義の書面「安河内事務局長問題に関する意見について」をJBCの理事・調査委員・評議員に提出。試合役員会会計担当のB13が、調査委員会の調査委員に書面「『安河内事務局長に関する意見について』〜事務局長に求められる資質、JBCの存在意義について〜」を提出。 6月5日 B9は安河内の行動等を書面で谷口に報告。 6月8日 「財団法人日本ボクシングコミッション関西試合役員会一同」がB1に「安河内事務局長問題に関する東京試合役員会の意見を全面的に支持し、同問題に関する真相究明を求める連判状」を提出。 6月9日 B2が本部事務所で職員らに対し、翌10日で安河内の休職期間が終わると話すと、B5は安河内が出勤するなら自分は出勤しないと言い、有給休暇を届け出る。 6月10日 安河内は専務理事付事務局長代行補佐に降格。B5らから本部事務所への入室を妨害される。安河内降格の示達にB5らが反発して騒ぎとなり、B2は安河内に出社を控えるよう指示するとともに記者会見で示達の内容を発表。 6月12日 東京都所在のaジムが安河内の試合会場立入りを拒否する書面をJBCに提出。 6月13日 B11が「財団法人日本ボクシングコミッション東京試合役員会会長 B11」名義の書面「中間答申及び示達に対する公開質問状」をB1に提出。谷口はB11に対し、調査委員会が中間答申を出した事実はないと回答。 6月16日 東京都所在のbジムがB2と安河内の試合会場立入りを禁じる書面に手書きで「協会より要望書に返答あるまで」と書き加えてJBCに提出。 6月23日 B4が事務局長代行をB2と兼任。B4ほか理事・関係者が記者会見を開き、新団体設立の意思を表明。JBCが安河内らを排除すれば、現状維持を考えると幹部に迫る。B11も試合役員・事務局員の大半が新団体に移る見込みと話す。東日本ボクシング協会は緊急理事会で新団体設立の支持を決議。週刊誌では、怪文書添付写真を配した記事でB11が安河内に対し「自ら身を引くべきです。これは、現場で働く我々の総意なのです」とコメント。安河内は怪文書についての被害届を練馬署に提出し、受理される。一般紙は厚生労働省の職員によるレフェリーの無断兼業を報じる。 6月24日 B4が記者会見を開き、安河内が排除されれば新団体設立を中止すると改めて示唆。 6月26日 JBCはレフェリーの兼業違反についての内部調査の結果、個人情報の漏洩があったことを謝罪し、この人物を特定し、処分する意向を表明。 6月27日 安河内は谷口同席の下、B1から翌日の理事会で決議される処分内容等を知らされ、再考を求めるが聞き入れられず、「今後、この騒動が不必要に拡大していった原因を調査し、その原因を作った職員らに対してしかるべき処置をしてほしい」と依頼。 6月28日 調査委員会が調査結果として安河内について指摘された問題点をいずれも否定。JBCは安河内を理事から解任、降格・減給処分を下し、本部事務所・試合会場に立ち入らないよう要請、本部事務局でのミーティングから安河内のみを除外。B4が本部事務局長に就任。専務理事はB2からB3に交代し、決裁にB3の同意を要する新体制に変わる。 7月1日 JBCは安河内をボクシングと無関係な関連会社へ配置転換。 7月中旬〜8月頃 B3・B4が安河内に対し、新たな雇用契約書に署名を求めたが、記載内容についての説明がなく、安河内はこれを拒否。 7月14日 B5はB4了解の下、「本部事務局長 B4」名義でA3に解雇通知書を送付。関西事務局長のB14とA3はB3・B4・B5を被通報者とし、この解雇通知を労働契約法第16条違反として公益通報を行う。 7月25日 B4は解雇撤回の通知書をA3に送付。 8月6日 JBCは業務連絡用のメーリングリストから安河内のみを除外 2012年 1月10日 B9がJBCに書面「JBC事務局の現状についての報告書と改善のお願い」を提出。 3月13日 JBCは本部事務局員の人事異動・配置転換を実施。実務経験のないB11を職員採用の上で本部事務局次長とし、B5を無役の職員から主任とする一方、安河内をどの部にも属さない「特命事項」担当とする。また、A1を経理業務から外してライセンス管理業務担当とし、経理実務経験のないB5を経理担当・主任とする。 3月21日 B5がJBCにA1の解雇を求める要望書を提出。 3月23日 JBCはA1に就業規則違反の疑いがあるとして4月12日までの自宅待機を命じる。 4月9日 JBCはA1に対する聞き取り調査を実施。JBC側からはB4・B11と外部弁護士の石田茂が出席。 4月12日 JBCはA1を懲戒解雇(第1次)。 5月7日 A1は東京地方裁判所に提訴。 5月24日 安河内は東京地方裁判所に提訴。 6月1日 JBCは安河内・A2・A3に自宅待機を命じる。 6月6日 JBCはA2に対する聞き取り調査を実施。JBC側からはB4・B11・B5が出席。 6月12日 JBCは安河内に対する聞き取り調査を実施。JBC側からはB11・B5・石田が出席。 6月14日 安河内はB1に同月12日の調査委員会・聞き取り調査に関する意見具申書を提出。 6月15日 JBCは安河内を懲戒解雇(第1次)。B9・B8は3月13日の人事異動に不満を持ち、退職。『ボクシング・マガジン』執筆陣がB4らに面会、情報提供。 6月16日 JBCはA2を解雇(第1次)、A3を懲戒解雇。 6月22日 安河内は解雇は不当と主張し、訴えに懲戒解雇の無効確認請求を追加。 8月7日 D1が新団体設立との関係を否定し、JBCを近く名誉毀損で提訴する構え、と伝える『週刊朝日』8月17–24日合併号が発売される。 8月13日 JBCはC2にマッチメーカーライセンスの無期限停止処分を決定。 8月17日 A2は東京地方裁判所に提訴。 9月18日 JBCはA1を懲戒解雇(第2次)。 12月7日 C2は東京地方裁判所に提訴(後述)。 12月16日 JBCは選手・大沢宏晋に1年間のライセンス停止処分、マネージャー・セコンドにライセンス取消処分、クラブオーナーに戒告処分を決定(後述)。 2013年 4月23日 JBCは安河内を懲戒解雇(第2次)。 7月1日 公益法人制度改革に伴い、理事会決議をもって一般財団法人化の方針をとり、「一般財団法人 日本ボクシングコミッション」と名称を変えて移行法人となる。B11が事務局長代行に就任。 8月27日 JBCはA2を解雇(第2次)。 8月30日 JBCはA1を懲戒解雇(第3次)。 9月4日 B10・B12の情報提供により知人のフリーライターが選手の名誉を毀損する記事をブログに掲載(後述)。 11月5日 東京都労働委員会がJBCの不当労働行為を認定したことを受け、全労協全国一般東京労働組合がJBC代表理事に命令書を交付(都労委平成24年不第38号事件)。 11月26日 JBCは安河内を反訴。 12月3日 いわゆる「負けても王座保持問題」。 2014年 2月 JBCは亀田ジムの会長・マネージャーのライセンス更新申請を却下(後述)。 11月21日 安河内・A2の事件、各第一審判決。 2015年 1月23日 A1の事件、第一審判決。 2月24日 B11が事務局長に就任。 6月17日 安河内の事件、控訴審判決。 10月6日 臨時理事会で本部事務局長の上位に「統括本部長」の職位を新設することを決議。評議員会は定款の変更を承認可決。B11が本部事務局長との兼務で統括本部長就任。同時に人事管理規定が変更され、事務局長職は人事権と予算執行権を失う。 2016年 6月8日 安河内の事件、最高裁判所第二小法廷決定により、原判決が確定。 7月11日 東日本ボクシング協会が混乱の収束を求める意見書をJBCに提出。 7月13日 日本プロボクシング協会が、11日付で提出された東日本ボクシング協会の意見書と同様の意見書を提出する意思を表明。 8月7日 東日本、中日本、西日本、西部日本の4協会が連名で、JBC理事の津江章二に緊急理事会の開催を要請。B11の職務停止、安河内の統括本部長としての復職などについて協議を求める。津江は翌日、緊急理事会の開催をB3に要請。 8月23日 JBCの緊急理事会で、津江・E1・B16・B17・B3・B11の6理事による協議の結果、6議案をすべて否決。 ※赤いセルは請求原因に類するもの、緑のセルは提訴、判決に類するもの。
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関係年表
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「エドゥアルト・シュトラウス1世」の記事における「関係年表」の解説
1835年3月15日 誕生 1855年2月11日 兄ヨハンの楽団のハープ奏者として音楽家デビュー 1861年2月6日 指揮者としてデビュー(場所はヴィンター・ガルテン) 1863年 マリア・クレンカールトと結婚 1870年2月23日 母アンナ死去 1870年7月22日 次兄ヨーゼフ42歳で死去 1872年 宮廷舞踏会音楽監督就任 1885年 初のイギリス演奏旅行 1890年 初のアメリカ演奏旅行 1895年 2度目のイギリス演奏旅行。ヴィクトリア女王御前演奏 1897年 財政破綻。理由は2人の息子と妻による浪費。 1899年6月3日 長兄ヨハン73歳で死去 1900年 2度目のアメリカ演奏旅行 1900年12月12日 メトリポリタン歌劇場で慈善演奏会。この演奏会をもって引退表明。 1901年 76年続いた楽団を解散 1903年 姉アンナ74歳で死去 1906年 回顧録を出版 1907年10月22日 自作を含む一族の自筆譜(他の作曲家の編曲譜を含む)を焼却工場で焼却 1915年 姉テレーゼ84歳で死去 1916年12月28日 心臓麻痺が原因で死去。81歳(ウィーン中央墓地に埋葬)。
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