第一次近代化改装
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扶桑はワシントン軍縮条約後に主砲天蓋の強化や主砲指揮所の新設などの改装を受けた。1930年(昭和5年)4月に呉海軍工廠で近代化改装に入り、1933年(昭和8年)5月12日にその工事は完了した。問題となっていた主砲発射による爆風の対策として、艦橋部分の新設と改装、装甲防御の増設と改善、更に7.6センチ砲等対空砲の搭載と、主砲仰角の引き上げという具合に攻防両面の能力向上が図られた。機関部は艦本式タービンや重油専焼缶への換装が行われ最大速力が24.7ノットへ向上、前部缶室区画が居住区や燃料タンクにされ航続距離が16ノットで11,800浬になった。この時に増設した艦橋の頂上までの高さは、およそ水面から50m以上にも達し、同型艦の山城と共に日本戦艦中最高となった。全長11m級の巨大な精密模型も製作され、海軍兵学校の「扶桑講堂」に展示された。 高い艦橋が不安定に見えるようになったが、艦橋形状と三番砲塔の向きの違いが山城との区別点となっている。なお建造から第一次改装までは扶桑の三番砲塔も砲口が艦尾方向を向いていた。第一次改装後に機関出力がほぼ倍増され、速力も公試時には24ktを発揮したが、実速は21.5ktに留まり[要出典]、安定して24.5ktの速力を出せる伊勢型戦艦2隻(伊勢、日向)、最高速力25kt強の長門型戦艦2隻(長門、陸奥)と戦隊を組む事には支障があったともされるが、長門型や伊勢型と同じ戦隊を組むことができたという当時の艦長の証言もある。 なお、ワシントン軍縮条約の前後に扶桑型を41cm砲搭載艦にする改装案があったが、条約で主砲や舷側装甲の変更が禁止されたため実現しなかった。 1933年(昭和8年)11月15日附で、高松宮宣仁親王(海軍大尉、昭和天皇弟宮)が扶桑分隊長(主砲後部砲台長)として配属される。荒木艦長以下が特別待遇をするので、親王が呆れる事もあった。謎の自殺者が出た際には『いやはや不景気な艦である』と評している1934年(昭和9年)2月4日、連合艦隊司令長官末次信正中将が巡視に訪れて激励した。4月1日、戦艦の魚雷装備廃止にともない、有田雄三(扶桑水雷長)は重巡摩耶に転任した。6月29日、演習中に駆逐艦深雪と電の衝突事故が発生、深雪は扶桑の目の前で沈没した。9月11日、扶桑以下第一艦隊は舞鶴を出発。連合艦隊演習にともない、北海道、朝鮮半島各地、大連(旅順港)等を航海する。26日より第一戦隊旗艦は扶桑から日向に変更となった。艦隊は青島市を経由して、10月5日佐世保に戻った。11月、高松宮は海軍大学校(甲種学生第34期)入学のため、扶桑を退艦した。
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