第一次近代化改装とは? わかりやすく解説

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第一次近代化改装

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 04:35 UTC 版)

扶桑 (戦艦)」の記事における「第一次近代化改装」の解説

扶桑ワシントン軍縮条約後に主砲天蓋強化主砲指揮所の新設などの改装受けた1930年昭和5年4月呉海軍工廠近代化改装入り1933年昭和8年5月12日にその工事完了した問題となっていた主砲発射による爆風対策として、艦橋部分新設改装装甲防御増設改善、更に7.6センチ砲等対空砲搭載と、主砲仰角引き上げという具合攻防両面能力向上図られた。機関部艦本式タービン重油専焼缶への換装が行われ最大速力が24.7ノットへ向上、前部缶室区画居住区燃料タンクにされ航続距離16ノット11,800になった。この時に増設し艦橋頂上までの高さは、およそ水面から50m以上に達し同型艦山城と共に日本戦艦中最高となった全長11m級の巨大な精密模型製作され海軍兵学校の「扶桑講堂」に展示された。 高い艦橋不安定に見えようになったが、艦橋形状三番砲塔向き違い山城との区別となっている。なお建造から第一次改装まで扶桑三番砲塔砲口艦尾方向向いていた。第一次改装後に機関出力がほぼ倍増され、速力公試時には24kt発揮したが、実速は21.5ktに留まり[要出典]、安定して24.5ktの速力出せ伊勢型戦艦2隻(伊勢日向)、最高速力25kt強の長門型戦艦2隻(長門陸奥)と戦隊を組む事には支障があったともされるが、長門型伊勢型と同じ戦隊を組むことができたという当時艦長証言もある。 なお、ワシントン軍縮条約前後扶桑型を41cm砲搭載艦にする改装案があったが、条約主砲舷側装甲変更禁止されたため実現しなかった。 1933年昭和8年11月15日附で、高松宮宣仁親王海軍大尉昭和天皇弟宮)が扶桑分隊長主砲後部砲台長)として配属される荒木艦長以下が特別待遇をするので、親王呆れる事もあった。謎の自殺者出た際には『いやはや不景気な艦である』と評している1934年昭和9年2月4日連合艦隊司令長官末次信正中将巡視訪れて激励した4月1日戦艦魚雷装備廃止にともない有田雄三扶桑水雷長)は重巡摩耶転任した6月29日演習中に駆逐艦深雪と電の衝突事故発生深雪扶桑目の前で沈没した9月11日扶桑以下第一艦隊舞鶴出発連合艦隊演習にともない北海道朝鮮半島各地大連旅順港)等を航海する26日より第一戦隊旗艦は扶桑から日向変更となった艦隊青島市経由して10月5日佐世保戻った11月高松宮海軍大学校甲種学生34期入学のため、扶桑を退艦した。

※この「第一次近代化改装」の解説は、「扶桑 (戦艦)」の解説の一部です。
「第一次近代化改装」を含む「扶桑 (戦艦)」の記事については、「扶桑 (戦艦)」の概要を参照ください。

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