第一次調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:15 UTC 版)
腕を縛られた状態で発掘されたポーランド軍将校(1943年4月30日)(画像ファイルへのリンク) 遺体の損傷が激しいため閲覧注意 調査は赤軍がスモレンスクに迫る緊迫した状況下で行われた。国際委員会は遺体の発掘と身元確認と改葬を行い、現地での聞き取り調査も行った。ドイツ側は「12,000人」の捕虜の遺体が埋められていると発表していたが、実数はそこまでには至らなかった。 発掘途中の調査では、遺体はコジェルスクの捕虜収容所に収容されていた捕虜と推定された。遺体はいずれも冬用の軍服を装着しており、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っていた。遺体の脳からは死後3年以上経過しないと発生しない物質が検出されたことや、墓穴の上に植えられた木の樹齢が3年だったこと、遺体が死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」だったことなどがソ連の犯行を窺わせた。 また、調査に同行したアメリカ軍捕虜のジョン・ヴァン・ブリード大佐とスチュワート大尉は、捕虜の軍服や靴がほころびていないことからソ連による殺害であることを直感したと後に議会公聴会で証言している。 1943年5月になると、現場付近の気温が上昇し、死臭が強まったために現地の労働者が作業を拒否するようになった。6月からは調査委員会と赤十字代表団が自ら遺体の発掘に当たった。明らかに拷問に遭った遺体や今までに見つからなかった8番目の穴が発見されるなど調査は進展したが、この頃になると赤軍がスモレンスクに迫ってきたため、委員会と代表団は引き上げを余儀なくされた。ポーランド赤十字社代表団は6月4日、委員会は6月7日に現地を離れた。 撤収までに委員会が確認した遺体の総数は4,243体であった。
※この「第一次調査」の解説は、「カティンの森事件」の解説の一部です。
「第一次調査」を含む「カティンの森事件」の記事については、「カティンの森事件」の概要を参照ください。
第一次調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/30 02:28 UTC 版)
大室古墳群は明治政府による陵墓探索の動きをうけ、1878年(明治11年)3月に前二子古墳と後二子古墳の石室が発見・開口された。この頃群馬県では、日本書紀に上毛野君・下毛野君の始祖とある豊城入彦命の陵墓探索が県を挙げて行われていた。その後、1875(明治8)年に前橋市の総社二子山古墳が陵墓参考地に治定されたが、翌年解除された。これにより、もう一度陵墓捜索が行われる過程で大室古墳群が発掘された。石室が開けられてから1ヶ月ののちの4月に当時の県令名で宮内卿宛てに前二子古墳を豊城入彦命の陵墓として上申されたが、11月に官員によって行われた調査では決定的な根拠を欠くとされ、陵墓認定は失敗に終わった。陵墓指定はされなかったものの、展示品の展覧会では一年間で日本中から5000人を超える見学者が訪れた。この調査により掘り出された出土品は近くの神社の宝物殿で大切に保管され、現在は前橋市教育委員会に収蔵されている。
※この「第一次調査」の解説は、「前二子古墳」の解説の一部です。
「第一次調査」を含む「前二子古墳」の記事については、「前二子古墳」の概要を参照ください。
- 第一次調査のページへのリンク