第一次試案: 1925年調査報告書作成まで
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「アメリカ国道」の記事における「第一次試案: 1925年調査報告書作成まで」の解説
ウィスコンシン州が全米に先駆けて道路に番号を振り始め、1918年5月に道路番号標識を整備した。他の州もすぐにウィスコンシン州に続き、1922年にはニュー・イングランド地方の6州が共同でニュー・イングランド州間道路(New England Interstate Route)を立ち上げた。 そんな中連邦政府でも連邦道路整備補助案Federal Aid Highway Act of 1916の通過を機に主要道の整備費用の半額を負担することとした。続く1921年度版の連邦道路整備補助案Federal Aid Highway Act of 1921では補助対象の道路を各州の道路の7%までとし、うち七分の三は州を横断する道路とされた。路線の選定は1923年までに完了している。 全米州高速道路協会(American Association of State Highway Officials、略称:AASHO)が1914年に結成され、道路規格の策定を行った。1924年の会合で主要道路に番号を振り、標識を整備した「州を横断する高速道路、interstate highways」を計画した。AASHOでは農務長官が各州と共同し路線の策定にあたるべきとの答申を出した。 農務長官の Howard M. Gore は答申を受け、州間高速道路合同委員会 the Joint Board on Interstate Highways を1925年3月2日に結成した。構成員は州の高速道路管理官が21人、連邦道路局(Bureau of Public Roads)付けの係官が3人。4月20、21日の初会合で U.S. Highway という名称が採択された。また米国国章に模した道路標識も決まった。 これに Auto trail 側は即座に反発した。既存の高速道路名を廃止し番号に置き換えることに反発したもので、これを受けて委員会側では地域レベルの会合を開き懐柔に努めた。5月15日に西部、同27日にミシシッピ川流域、翌月3日に五大湖地域、8日に南部、15日に北大西洋地方およびニュー・イングランド地方で会合が持たれた。Auto trail側は会合で発言することはできなかったが、各地を訪れていた委員と直接交渉し、委員会ではauto trail側の案と大筋で合意するに至った。暫定案では総延長81,000マイル(130,000キロ)に及び当時の公道の2.8%を占めることとなった。 二回目の全体会合は1925年8月3、4日に開かれた。道路網の密度が議題に上がり、マサチューセッツ州のWilliam F. Williamsやニューヨーク州のFrederick S. Greenのように大陸を横断する主要道のみを国道に指定する案を支持する向きもあったが、そういった最重要路線に限らず、地域内のみで完結する主要道も国道に指定する案を支持する州が多かった。Greeneは例えばニューヨーク州内の国道を主要4路線に絞る例を挙げている。大方国道のカバーする範囲については意見の一致が見られたが、中西部の道路が多すぎるとする意見が多かった。第一回の会合で採択された道路標識は若干の修正の後採択され、道路に固有名ではなく数字を振る案も可決された。東西方向の主要8路線、南北方向の主要10路線の番号の振り方については、番号制定小委員会に無条件で付託された。 各州との協議を経て合意に至った最終案では総延長122,000キロ(75,800マイル)、国内全線の2.6%にも及ぶ計画となり、8月4日に可決した草案より50%以上も路線長が伸びている。番号の振り方は連邦道路局のEdwin Warley Jamesが8月27日に骨子をまとめ、方向により偶奇を振り分け、全米を座標に見立てて順に番号を振る案を提示した。当初の計画図では下一桁が0、1、5で終わるものを主要道(その後間もなく下一桁が5の路線は準主要道に格下げられている)、短距離連絡路線については接続先の本線に応じた三桁の道路番号が与えられた。会員5名からなる小委員会で9月25日に最終案がまとめられ、州間高速道路合同委員会に10月26日付けで最終報告書が提出された。10月30日には農務長官の下に報告書が送られ、1925年11月18日に認可された。 当時の主な大陸横断路線(一部は既存のauto trailをざっくりと踏襲した路線)は以下の通り。 U.S. Route 1, Fort Kent, ME to Miami, FL: Atlantic Highway U.S. Route 6, Provincetown, MA to Long Beach, CA U.S. Route 11, Rouses Point, NY to New Orleans, LA U.S. Route 21, Cleveland, OH to Jacksonville, FL (where it met US 1) U.S. Route 31, Mackinaw City, MI to Mobile, AL U.S. Route 41, Powers, MI to Naples, FL: Dixie Highway U.S. Route 51, Hurley, WI to New Orleans, LA U.S. Route 61, Canadian border north of Grand Marais, MN to New Orleans, LA U.S. Route 71, International Falls, MN to Baton Rouge, LA (where it met US 61): Jefferson Highway U.S. Route 81, Canadian border north of Pembina, ND to Laredo, TX: Meridian Highway U.S. Route 91, Great Falls, MT to south of Las Vegas, NV U.S. Route 101, Port Angeles, WA to San Diego, CA: Pacific Highway U.S. Route 2, Houlton, ME to Bonners Ferry, ID U.S. Route 10, Detroit, MI to Seattle, WA: National Parks Highway U.S. Route 20, Boston, MA to Newport, OR U.S. Route 30, Atlantic City, NJ to Astoria, OR: Lincoln Highway U.S. Route 40, Atlantic City, NJ to San Francisco, CA: Victory Highway U.S. Route 50, Annapolis, MD to Wadsworth, NV (where it met US 40) U.S. Route 60, Chicago, IL to Los Angeles, CA U.S. Route 70, Morehead City, NC to Holbrook, AZ (where it met US 60) U.S. Route 80, Savannah, GA to San Diego, CA: Dixie Overland Highway U.S. Route 90, Jacksonville, FL to Van Horn, TX (where it met US 80): Old Spanish Trail 10、60、90号線は厳密には大陸横断路線にはなっておらず、実際には大陸を三分の二程横断したところで途切れている。また11号線は南北方向ではなく、南西から北東方向へ、60号線は東西方向ではなくやはり南西から北東方向へ走っている。60号線が原則から大きく外れてしまっているあたりに(下一桁が0の幹線道路用の番号にもかかわらず大陸を横断しきっていない点、偶数番号にもかかわらず東西方向に伸びていない点)、計画策定時の紆余曲折ぶりが見て取れよう。ちなみに60号線はその後1926年にかのルート66(66号線)に差し替えられている。また101号線は奇数番号の南北路線にもかかわらずワシントン州で東に折れ、更に南下してワシントン州都オリンピアまで伸びている。 当時の2号線は大陸を横断しきっていなかったが、現在は上記のBonners Ferryから更に西のワシントン州Everettまで延長されており、道路番号の原則通り大陸横断路となっている。
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