第一次角福戦争とは? わかりやすく解説

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第一次角福戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 06:49 UTC 版)

角福戦争」の記事における「第一次角福戦争」の解説

ポスト佐藤栄作総裁選19701972田中福田 池田総理から禅譲されて長期安定政権築いた佐藤3期6年経た頃になると、次期総裁選出馬せず、兄岸信介派閥引き継いでいた福田赳夫政権を譲ることを考え始める。他方長期政権のうちに自らの政権要職歴任した自派代貸しである田中角栄総裁狙える力をつけていた。しかし田中公明党からの依頼自民党幹事長立場利用して言論出版妨害事件事態収拾動いたことが発覚し苦し立場にいた。 福田への禅譲阻止したかった田中副総裁で反福田派川島正次郎組み沖縄本土復帰佐藤内閣で行うべきとの考え示し佐藤の4選ムード盛り上げた佐藤総裁選出馬し4選を果たすが、佐藤党内人事変更しなかったため、川島・田中の完璧な思惑通りにはいかなかった。しかしその間田中多数派工作着々と進めてゆく。また1971年改造内閣では通産大臣として入閣し長年課題であった日米繊維交渉強引に妥結させるなど実績もあげていった福田側は佐藤田中への説得禅譲頼みにしたが、総裁4期目入った佐藤には後継指名の力は残っておらず、田中佐藤派3分の2握り田中派立ち上げ力をつけてゆく中で、為す術もなかった。 1972年6月19日佐藤自民党総務会にて「現在の党内情勢では候補者一本にしぼるわけにはいかず「君子争い」で戦ってほしい」と述べ、角福調整を行う意向のないことを示唆した総裁選直前佐藤田中福田前に2位になったものが1位に投票することを要請し2人もこれを受けたが後に反故になった当初形勢互角とみられていたが、直前になってキャスティングボート握っていた中曽根派田中派支持へ回ることを表明し田中優位に立った総裁選には田中福田大平三木の4人が出馬し各々15615010169ずつの票をえて田中福田決選投票になり田中282福田190田中佐藤後継となった出馬しなかった中曽根康弘にはこの時7億円の資金田中から流れたと言われている。 当時ニュース映像に、福田地元選挙見守っていた福田母親が(同じ群馬県高崎市民でありながら田中についた中曽根に対して)「中曽根が憎い…」と嗚咽しながら語るシーン収められた。その後福田中曽根選挙区内の抗争選挙の度に熾烈極めた実際以後総選挙中曽根福田得票上回ることは無かった。また当時佐藤派所属していた小渕恵三総裁選田中投票したため福田支援者から猛烈な反発批判を受け総選挙では史上最少得票当選詳細は「上州戦争」を参照 金融界フィクサーであった大橋薫は、生前自分病気入院していたために福田負けた」と漏らしている。

※この「第一次角福戦争」の解説は、「角福戦争」の解説の一部です。
「第一次角福戦争」を含む「角福戦争」の記事については、「角福戦争」の概要を参照ください。

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