第一次角福戦争
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ポスト佐藤栄作総裁選(1970〜1972)田中 対 福田 池田総理から禅譲されて長期安定政権を築いた佐藤も3期6年を経た頃になると、次期総裁選に出馬せず、兄岸信介の派閥を引き継いでいた福田赳夫に政権を譲ることを考え始める。他方、長期政権のうちに自らの政権で要職を歴任した自派閥代貸しである田中角栄も総裁を狙える力をつけていた。しかし田中は公明党からの依頼で自民党の幹事長の立場を利用して言論出版妨害事件の事態収拾に動いたことが発覚し苦しい立場にいた。 福田への禅譲を阻止したかった田中は副総裁で反福田派の川島正次郎と組み沖縄の本土復帰は佐藤内閣で行うべきとの考えを示し佐藤の4選ムードを盛り上げた。佐藤は総裁選に出馬し4選を果たすが、佐藤は党内人事を変更しなかったため、川島・田中の完璧な思惑通りにはいかなかった。しかしその間に田中は多数派工作を着々と進めてゆく。また1971年の改造内閣では通産大臣として入閣し、長年の課題であった日米繊維交渉を強引に妥結させるなど実績もあげていった。福田側は佐藤の田中への説得と禅譲を頼みにしたが、総裁4期目に入った佐藤には後継指名の力は残っておらず、田中が佐藤派の3分の2を握り田中派を立ち上げ力をつけてゆく中で、為す術もなかった。 1972年6月19日、佐藤は自民党総務会にて「現在の党内情勢では候補者を一本にしぼるわけにはいかず「君子の争い」で戦ってほしい」と述べ、角福調整を行う意向のないことを示唆した。 総裁選直前に佐藤は田中と福田を前に2位になったものが1位に投票することを要請し、2人もこれを受けたが後に反故になった。 当初形勢は互角とみられていたが、直前になってキャスティングボートを握っていた中曽根派が田中派の支持へ回ることを表明し田中が優位に立った。 総裁選には田中、福田、大平、三木の4人が出馬し各々156、150、101、69ずつの票をえて田中と福田の決選投票になり田中282、福田190で田中が佐藤の後継となった。出馬しなかった中曽根康弘にはこの時7億円の資金が田中から流れたと言われている。 当時のニュース映像に、福田の地元で選挙を見守っていた福田の母親が(同じ群馬県高崎市民でありながら田中についた中曽根に対して)「中曽根が憎い…」と嗚咽しながら語るシーンが収められた。その後福田と中曽根の選挙区内の抗争も選挙の度に熾烈を極めた。実際、以後の総選挙で中曽根が福田の得票を上回ることは無かった。また当時佐藤派に所属していた小渕恵三も総裁選で田中に投票したため福田の支援者から猛烈な反発や批判を受け総選挙では史上最少得票で当選。 詳細は「上州戦争」を参照 金融界のフィクサーであった大橋薫は、生前「自分が病気で入院していたために福田が負けた」と漏らしている。
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