第一次蔚山城の戦い
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籠城開始から10日後の1月3日、西生浦から毛利秀元・黒田長政らの率いる援軍が蔚山城南方の高地に到着した。また海上には長宗我部元親らの水軍が到来した。このため明・朝鮮軍は早急に蔚山城を陥落させる必要に迫られた。その夜、楊鎬、麻貴は全軍を自ら督戦して最後の攻城戦を開始するが、敵前退却する士率を斬り捨て、さらに戦意不足の李化龍を捕縛し軍中の見せしめにしなければならない状況であった。来援を知った蔚山城兵は生気を取り戻して迎撃し、攻めかかる敵兵に銃弾を浴びせかけた。明・朝鮮軍は誰一人として抵抗する者がいなくなるほどの損害を被り、最後の攻城戦は失敗した。 翌4日、楊鎬、麻貴は城攻めの失敗と援軍の到来により退路を失うと判断し、擺寨、楊登山、呉惟忠、茅国器の4隊を後衛として逐次慶州へ撤退を開始する。 日本の赴援軍では毛利秀元の陣所より、吉川広家が先陣として明軍に向かって突撃し、続いて立花宗茂は吉川隊と連携しつつ側面から追撃、黒田長政、小早川秀秋ら日本軍諸部隊も一度に突撃した。これを受けた明軍は敗走を開始した。 明軍の内、箭灘を守っていた浙江の歩兵及び騎兵には、楊鎬、麻貴の撤退が伝わっておらず、慌てて転倒しながら逃走をはじめた。蔚山城の日本兵は山を駆け下り、一気に敵兵を討ち殺した。明軍で歩兵の生還者は多くなく、騎兵も多数の戦死者を出し、甲冑を投棄し身一つで逃走した。また朝鮮軍も多くの死傷者を出した。 吉川広家は明軍の一隊の退路を寸断すると、その退路を失った明兵は池のある方向へ逃亡した。日本軍はこれを池まで追い詰めて多くの敵兵を討ち取った。 さらに日本軍は敗走する明・朝鮮軍を30里にわたって追撃する。明軍の戦死者は無数に及び、追撃戦時における戦死者数は、軍中で隠蔽されているため正確には判らないが、或いは3,000とも、或いは4,000とも云われ、その中で参将盧継忠の一軍は後方にあったためほとんど壊滅した。このとき小早川秀秋は、自ら馬に乗り退却する明・朝鮮連合軍を激しく追撃し、数多くの敵兵を討ち取っている。中国側の史料である明史によれば、この戦いで明軍は2万人が戦死する大損害を出し、戦いは日本軍の勝利となった。城廻り敵死骸数の事『浅野家文書』二五五号によると、合戦後の日本側検証で各場所合計10,386人分の敵兵の遺棄死体を確認している。明軍の指揮官クラスでは、遊撃楊万金戦死、千総麻来戦死、千総周道継戦死、千総李洞賓戦死、把総郭安民戦死、千総王子和戦死、哨総湯文瓚戦死、千総銭応太戦死、張応元戦死、陳観策戦死、遊撃陳寅負傷、遊撃陳愚沖負傷という損害を出している。明将楊鎬は日本軍の追撃を恐れ、漢城まで撤退した。 敗北した明軍では退却中に麻貴配下の韃靼兵が略奪を働くなど統制が乱れ、また朝鮮人が日本軍の味方をしたとの情報に接した明軍上層部が不審を抱くこととなった。明軍を統括する経略の邢玠は1598年2月に結果を戦勝として皇帝に奏上し、万暦帝はこれを「国威、大いに彰わす」と賞賛した。しかし、邢玠の部下で賛画の丁応泰は、戦捷は虚報であり、経理楊鎬、提督麻貴、副総兵李如梅らは多数の兵と武器を喪失し、事実を隠蔽したことを6月に上奏した。他に遊撃陳寅・周陞からの讒言もあり、万暦帝は激怒して楊鎬を更迭し、天津巡撫万世徳に代えた。
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