第一次蔚山城の戦いとは? わかりやすく解説

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第一次蔚山城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 08:45 UTC 版)

蔚山城の戦い」の記事における「第一次蔚山城の戦い」の解説

籠城開始から10日後の1月3日、西生浦から毛利秀元黒田長政らの率い援軍蔚山城南方高地到着した。また海上には長宗我部元親らの水軍到来したこのため明・朝鮮軍は早急に蔚山城陥落させる必要に迫られた。その夜楊鎬麻貴全軍を自ら督戦して最後攻城戦開始するが、敵前退却する士率を斬り捨て、さらに戦意不足の化龍を捕縛し軍中見せしめにしなければならない状況であった来援知った蔚山城兵は生気取り戻して迎撃し、攻めかかる敵兵銃弾浴びせかけた。明・朝鮮軍は誰一人として抵抗する者がいなくなるほどの損害被り最後攻城戦失敗した。 翌4日楊鎬麻貴城攻め失敗援軍到来により退路を失うと判断し、擺寨、楊登山、呉惟忠、国器の4隊を後衛として逐次慶州撤退開始する日本赴援軍では毛利秀元陣所より、吉川広家先陣として明軍向かって突撃し続いて立花宗茂吉川隊と連携しつつ側面から追撃黒田長政小早川秀秋日本軍部隊一度突撃した。これを受けた明軍敗走開始した明軍の内、箭灘を守っていた浙江歩兵及び騎兵には、楊鎬麻貴撤退伝わっておらず、慌てて転倒しながら逃走はじめた蔚山城日本兵は山を駆け下り一気敵兵討ち殺した明軍歩兵生還者多くなく、騎兵多数戦死者出し甲冑投棄し身一つ逃走した。また朝鮮軍多く死傷者出した吉川広家明軍一隊退路寸断すると、その退路失った明兵は池のある方向逃亡した日本軍はこれを池まで追い詰めて多く敵兵討ち取った。 さらに日本軍敗走する明・朝鮮軍を30里にわたって追撃する。明軍戦死者無数に及び、追撃戦時における戦死者数は、軍中隠蔽されているため正確に判らないが、或いは3,000とも、或いは4,000とも云われ、その中で参将盧継忠の一軍後方にあったためほとんど壊滅した。このとき小早川秀秋は、自ら馬に乗り退却する明・朝連合軍激しく追撃し数多く敵兵討ち取っている。中国側史料である明史によれば、この戦いで明軍2万人が戦死する大損害を出し戦い日本軍勝利となった城廻り敵死骸数の事『浅野文書』二五五号によると、合戦後日本検証で各場所合計10,386分の敵兵遺棄死体確認している。明軍指揮官クラスでは、遊撃万金戦死千総麻来戦死千総周道継戦死、千総洞賓戦死、把総郭民戦死、千総王子和戦死、哨総湯文瓚戦死千総銭応太戦死、張応元戦死、陳観策戦死、遊撃陳寅負傷遊撃陳愚沖負傷という損害出している。明将楊鎬日本軍追撃恐れ漢城まで撤退した敗北した明軍では退却中に麻貴配下韃靼兵が略奪を働くなど統制乱れ、また朝鮮人日本軍味方をしたとの情報接した明軍上層部不審を抱くこととなった明軍統括する経略の邢玠は1598年2月結果戦勝として皇帝奏上し万暦帝はこれを「国威大いに彰わす」と賞賛した。しかし、邢玠の部下で賛画の丁応泰は、戦捷虚報であり、経理楊鎬提督麻貴、副総兵李如梅らは多数の兵と武器喪失し事実隠蔽したことを6月上奏した。他に遊撃陳寅・周陞からの讒言もあり、万暦帝激怒して楊鎬更迭し、天津巡撫万世徳代えた

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