第一次芸術座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/23 02:32 UTC 版)
1913年(大正2年)、松井須磨子とのスキャンダルが露見したことにより坪内逍遥の文芸協会を脱退することになった島村抱月が、松井、相馬御風、水谷竹紫、沢田正二郎、秋田雨雀らと共に劇団「芸術座」(第一次芸術座)を結成。 1914年(大正3年)、第3回目の公演としてトルストイの『復活』を上演。劇中で歌を歌わせるという日本初の試みが話題になったこともあり、通算で444回の公演を重ねるほど評判になった。また、松井の歌う劇中歌「カチューシャの唄」のレコードは、蓄音機の普及が進んでおらず数千枚売れればヒットという時代にあって、2万枚の売り上げを記録した。このヒットによって、活動拠点となる「芸術倶楽部」を東京市牛込区(現・東京都新宿区)に建築。 翌1915年(大正4年)にはツルゲーネフの『その前夜』を、1917年(大正6年)にはトルストイの『生ける屍』を上演。これらも劇中歌の『ゴンドラの唄』『さすらいの唄』がヒットするほどの評判となった。 しかしこの間、劇団内部では松井と他の団員との確執が深刻化。水谷竹紫は第1回公演の後に脱退、沢田正二郎らも1917年に脱退して新国劇を旗揚げし、以後も団員の離脱が相次いだ。 1918年(大正7年)11月、島村がスペイン風邪で急死、2ヵ月後には松井が島村の後を追って自殺。芸術座は解散した。
※この「第一次芸術座」の解説は、「芸術座 (劇団)」の解説の一部です。
「第一次芸術座」を含む「芸術座 (劇団)」の記事については、「芸術座 (劇団)」の概要を参照ください。
- 第一次芸術座のページへのリンク