第一次蜂起とは? わかりやすく解説

第一次蜂起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/24 06:13 UTC 版)

ジェマイティヤ蜂起」の記事における「第一次蜂起」の解説

ヴィリニュス・ラドム合同成立ポーランド貴族援助取り付けたヴィータウタスは、1401年3月12日ドイツ騎士団との戦端開いたジェマイティヤ人反乱軍組織しドイツ騎士団建設した新たな2つの城を焼いた。そこにいた騎士捕虜とされ、プロイセンにいたジェマイティヤ人捕虜交換された。1401年秋、騎士団カウナスフロドナ襲撃した。この時点まで、ヴィータウタス表向きジェマイティヤ反乱には支援していないと装っていた。ドイツ騎士団黒幕ヴィータウタスであることに気づいていたが、これを明らかにしてしまうとヴィータウタス騎士団の敵ヨガイラより一層接近してしまう恐れがあった。1402年1月ヨガイラの弟シュヴィトリガイラリトアニア大公位を主張してドイツ騎士団側として参戦した。彼はサリナス条約承認引き換えドイツ騎士団援助引き出しヴィータウタスドイツ騎士団との正面対決引きずり込んだ1402年5月ジェマイティヤ人メーメル(現クライペダ)を焼いたヴィータウタス同年本格的に参戦し、ゴッテスヴェルダーを攻撃した。この騎士団要塞は3か月攻城戦の末に降伏した7月シュヴィトリガイラドイツ騎士団軍勢率いてヴィリニュスの南のシャルチニンカイなどに進出しリトアニア首都ヴィリニュスを陥れようとした1403年4月リトアニア人ジェマイティヤ人リヴォニアデューナブルク(現ダウガフピルス)を襲われ打撃受けたドイツ騎士団教皇教会西欧対し何度も苦情訴えた。彼らはヴィータウタス3回の裏切り(1384年1390年1398年)を糾弾した。これに対しヴィータウタスは、ジェマイティヤ人騎士修道会支配下入ったにもかかわらず洗礼受けられていない点をついた。この結果教皇ボニファティウス9世ドイツ騎士団リトアニアへの攻撃禁ずる勅令出した戦争通じて両者とも決定的勝利を挙げることができず、ヴィータウタススモレンスク問題に力を注ぎたかったため、ドイツ騎士団リトアニア1403年夏に和平交渉入った12月一時停戦決まり1404年5月22日にラチョンシュの和約結ばれた。これはサリナス条約要旨引き継ぐのだったヴィータウタスジェマイティヤドイツ騎士団引き渡し騎士団による反乱鎮圧手助けすることになった。また彼はジェマイティヤ人家族リトアニア逃亡することを禁ずる条文にも同意した1405年ヴィータウタスドイツ騎士団によるラセイニアイ、ヴィドゥクリェ、アリオガラ平定援助した

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第一次蜂起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:25 UTC 版)

甲午農民戦争」の記事における「第一次蜂起」の解説

1860年代から朝鮮変革の時代を迎えていた。これに1880年代以降国内動乱期を乗り越えた日本アメリカ合衆国西欧列強加わり次の時代向けた模索の中で混乱時期迎えていた。 閔氏政権重税政策両班たちの間での賄賂と不正収奪横行、そして1876年日朝修好条規江華島条約)をはじめとした閔氏政権開国政策により外国資本進出してくる等、当時朝鮮民衆の生活は苦し状況であった朝鮮政府暴政対し次のような詩が朝鮮国内に広く伝昌されていた。 金美酒千人血 金の入った美酒は、千人の血からできており玉萬姓膏 玉にある美味いは、人民の油でできている燭涙落時民涙落 ろうそくから滴るとき、人々の涙も滴り 歌舞高處怨聲高 歌舞の音楽高く鳴り響くとき、人々怨嗟の声も高くとどろく 朝鮮改革巡っては、壬午事変甲申政変のような政変があったが、いずれも蜂起失敗終わったこうした中で政権を手にしていた閔氏は、自らの手改革を行うことができずにいた。このつけは全て民衆振り向けられ、民衆の不満は高まり1883年から各地農民蜂起(民乱)が起きていた。そのような中、1894年全羅道古阜郡で、群守の趙秉甲(朝鮮語版)が税の横領起こし、その横領に対して全羅道観察使哀願行った農民逆に逮捕される事件起きた。この事件により、同年春に崔済愚高弟東学党二代目教祖となった崔時亨武力蜂起し、甲午農民戦争発展した反乱軍全琫準という知将得て5月には全州一帯支配下置いた全羅道古阜郡の民乱も当初は他の民乱と変わるところはなく、自分達の生活を守ろうとするものでしかなかった。しかし、この民乱の指導者に成長した全琫準含め農民多く東学帰依していたことから、この東学信者通じて民乱が全国的な内乱発展してゆく。 全琫準下層役人であった。しかし、17世紀から普及し始めた平民教育で、全琫準のような両班知識人形成されていた。この全琫準発した呼びかけ文が東学信者の手全道撒かれ呼びかけ応じた農民で、数万軍勢形成された。彼らは全羅道配備されていた地方軍中央から派遣され政府軍各地破り5月末には道都全州占領するまでに至った。 これに驚いた閔氏政権は、5月30日清国援軍要請。これに脅威感じた日本6月2日朝鮮出兵決定し同月4日清国対し即時撤兵要求した拒否される天津条約もとづき日清互いに朝鮮出兵通告日本6月6日出兵発動し清国軍の朝鮮撤兵再度要求、翌7日に清駐韓国公使清国属領保護のための派兵であるとその正当性主張し8日清国軍が朝鮮牙山上陸12日日本軍在留邦人保護名目仁川上陸7月16日には漢城近郊布陣して清国軍と対峙することになった。この状況慌てた閔氏政権は、農民提案を基に全州和約作成し締結したといわれる(但し和約結んだとする一次資料発見されていない)。この和約従来地方政府復活したが、同時に農民側のお目付け役執綱所」が設けられ全羅道農民権力による自治確立した

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