第一次蜂起
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ヴィリニュス・ラドム合同成立でポーランド貴族の援助を取り付けたヴィータウタスは、1401年3月12日、ドイツ騎士団との戦端を開いた。ジェマイティヤ人も反乱軍を組織し、ドイツ騎士団が建設した新たな2つの城を焼いた。そこにいた騎士は捕虜とされ、プロイセンにいたジェマイティヤ人の捕虜と交換された。1401年秋、騎士団はカウナスとフロドナを襲撃した。この時点まで、ヴィータウタスは表向きはジェマイティヤの反乱には支援していないと装っていた。ドイツ騎士団は黒幕がヴィータウタスであることに気づいていたが、これを明らかにしてしまうとヴィータウタスが騎士団の敵ヨガイラにより一層接近してしまう恐れがあった。1402年1月、ヨガイラの弟シュヴィトリガイラがリトアニア大公位を主張してドイツ騎士団側として参戦した。彼はサリナス条約の承認と引き換えにドイツ騎士団の援助を引き出し、ヴィータウタスをドイツ騎士団との正面対決に引きずり込んだ。 1402年5月、ジェマイティヤ人はメーメル(現クライペダ)を焼いた。ヴィータウタスも同年に本格的に参戦し、ゴッテスヴェルダーを攻撃した。この騎士団の要塞は3か月の攻城戦の末に降伏した。7月、シュヴィトリガイラはドイツ騎士団の軍勢を率いてヴィリニュスの南のシャルチニンカイなどに進出し、リトアニアの首都ヴィリニュスを陥れようとした。1403年4月、リトアニア人とジェマイティヤ人はリヴォニアのデューナブルク(現ダウガフピルス)を襲われ打撃を受けた。ドイツ騎士団は教皇や教会、西欧に対し何度も苦情を訴えた。彼らはヴィータウタスの3回の裏切り(1384年、1390年、1398年)を糾弾した。これに対しヴィータウタスは、ジェマイティヤ人が騎士修道会の支配下に入ったにもかかわらず洗礼を受けられていない点をついた。この結果、教皇ボニファティウス9世はドイツ騎士団にリトアニアへの攻撃を禁ずる勅令を出した。戦争を通じて両者とも決定的勝利を挙げることができず、ヴィータウタスはスモレンスク問題に力を注ぎたかったため、ドイツ騎士団とリトアニアは1403年夏に和平交渉に入った。12月に一時停戦が決まり、1404年5月22日にラチョンシュの和約が結ばれた。これはサリナス条約の要旨を引き継ぐものだった。ヴィータウタスはジェマイティヤをドイツ騎士団に引き渡し、騎士団による反乱鎮圧を手助けすることになった。また彼はジェマイティヤ人の家族がリトアニアに逃亡することを禁ずる条文にも同意した。1405年、ヴィータウタスはドイツ騎士団によるラセイニアイ、ヴィドゥクリェ、アリオガラ平定を援助した。
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第一次蜂起
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1860年代から朝鮮は変革の時代を迎えていた。これに1880年代以降、国内の動乱期を乗り越えた日本やアメリカ合衆国、西欧の列強が加わり、次の時代に向けた模索の中で混乱の時期を迎えていた。 閔氏政権の重税政策、両班たちの間での賄賂と不正収奪の横行、そして1876年の日朝修好条規(江華島条約)をはじめとした閔氏政権の開国政策により外国資本が進出してくる等、当時の朝鮮の民衆の生活は苦しい状況であった。朝鮮政府の暴政に対し次のような詩が朝鮮国内に広く伝昌されていた。 金樽美酒千人血 金の樽に入った美酒は、千人の血からできており玉椀佳魚萬姓膏 玉椀にある美味い魚は、人民の油でできている燭涙落時民涙落 ろうそくから蝋が滴るとき、人々の涙も滴り 歌舞高處怨聲高 歌舞の音楽が高く鳴り響くとき、人々の怨嗟の声も高くとどろく 朝鮮の改革を巡っては、壬午事変や甲申政変のような政変があったが、いずれも蜂起は失敗に終わった。こうした中で政権を手にしていた閔氏は、自らの手で改革を行うことができずにいた。このつけは全て民衆に振り向けられ、民衆の不満は高まり、1883年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。そのような中、1894年に全羅道古阜郡で、群守の趙秉甲(朝鮮語版)が水税の横領を起こし、その横領に対して全羅道観察使に哀願を行った農民が逆に逮捕される事件が起きた。この事件により、同年春に、崔済愚の高弟で東学党の二代目教祖となった崔時亨が武力蜂起し、甲午農民戦争に発展した。反乱軍は全琫準という知将を得て5月には全州一帯を支配下に置いた。 全羅道古阜郡の民乱も当初は他の民乱と変わるところはなく、自分達の生活を守ろうとするものでしかなかった。しかし、この民乱の指導者に成長した全琫準を含め農民の多くが東学に帰依していたことから、この東学の信者を通じて民乱が全国的な内乱に発展してゆく。 全琫準は下層の役人であった。しかし、17世紀から普及し始めた平民教育で、全琫準のような非両班知識人が形成されていた。この全琫準が発した呼びかけ文が東学信者の手で全道に撒かれ、呼びかけに応じた農民で、数万の軍勢が形成された。彼らは全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領するまでに至った。 これに驚いた閔氏政権は、5月30日に清国に援軍を要請。これに脅威を感じた日本は6月2日に朝鮮出兵を決定し、同月4日に清国に対し即時撤兵を要求したが拒否される。天津条約にもとづき、日清互いに朝鮮出兵を通告。日本は6月6日に出兵を発動し清国軍の朝鮮撤兵を再度要求、翌7日に清駐韓国公使が清国の属領保護のための派兵であるとその正当性を主張し、8日に清国軍が朝鮮牙山に上陸、12日に日本軍が在留邦人保護を名目に仁川に上陸、7月16日には漢城近郊に布陣して清国軍と対峙することになった。この状況に慌てた閔氏政権は、農民の提案を基に全州和約を作成し締結したといわれる(但し和約を結んだとする一次資料は発見されていない)。この和約で従来の地方政府が復活したが、同時に農民側のお目付け役「執綱所」が設けられ、全羅道に農民権力による自治が確立した。
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