第一次臨時政府の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 11:34 UTC 版)
「立憲民主党 (ロシア)」の記事における「第一次臨時政府の成立」の解説
翌年の1917年に二月革命が起きると、13名の国会議員から構成される国会臨時委員会(英語版)が組織され、国家権力を掌握した。この臨時委員会には、カデットからはミリュコーフと国会副議長ニコライ・ネクラーソフが参加した。 臨時委員会において、君主制を維持するべきかどうかという議論が生じると、党内左派に位置するネクラーソフは君主制の放棄を支持する一方、ミリュコーフは君主制の維持を訴えた。そのため、両者のあいだで対立が生じたが、最終的に皇帝候補のミハイル大公自身が帝位を拒絶した。 その後に成立した第一次臨時政府では、外相にミリュコーフ、運輸相にネクラーソフ、農相にシンガリョフが就任するなど5つの閣僚ポストを得ており、この政府はカデットを中心としていた。一方、社会革命党やメンシェビキといった社会主義政党は、ペトログラード・ソビエト(英語版)を通して労働者・兵士を掌握し、臨時政府を外部から監督するという立場をとった。 3月に行われた第7回党大会では、党の綱領を立憲君主制から民主共和制に変更することが決定された。その一方で、党の幹部ココシキンが「われわれは、いつも市民的権利と国民の平等の原則の不可侵を擁護してきたし、今後もかわらず擁護するだろう」と演説し、自由と平等の擁護、国民主権の原則、社会的公正の実現といった党の目標は不変であることを確認した。また、同大会では、ココシキンの報告に基づいて、現在の臨時政府はあくまで暫定政権にすぎず、できるかぎり早い時期に憲法制定会議(英語版、ロシア語版)を召集して新たな国家体制を決定するべきだという原則が決議された。 しかし、4月、ミリュコーフが外相として戦争継続を約束する外交文書「ミリュコーフ通牒」を作成すると、これがペトログラード・ソビエトの反発を招き、さらに兵士たちの抗議デモを引き起こす事態となった。カデットの中央委員会も対抗して「ミリュコーフ信任」および「臨時政府万歳」と主張するデモを組織したものの、結局この政府危機「4月危機」によってミリュコーフは辞任を余儀なくされた。
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