第一次虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:51 UTC 版)
詳細は「ハミディイェ虐殺(英語版)」を参照 やがてムスリムとキリスト教徒との緊張は高まり、ついに1894年夏、サスーンでの徴税トラブルに端を発するアルメニア人の武装蜂起(ドイツ語版)が発生。この鎮圧過程で数百人から数千人が殺害された。政府はこれを「アルメニア人とクルド人との間の些細な衝突」としたが、事件を政府による組織的虐殺ととらえたアルメニア人側は、態度を一層硬化させた。翌1895年10月にはトラブゾンで官吏が何者かに襲撃され、捜査のためアルメニア人地区へ入った軍と住民との間の衝突が、アルメニア人の虐殺へと発展した。虐殺はディヤルバクル(英語版)など東アナトリア全域のアルメニア人居住区へと拡大し、最終的に1895年から翌1896年にかけて数万人のアルメニア人が犠牲となった。 この間にも西欧列強はオスマンへの干渉に消極的であり、やがてダシュナク党の中からは、オスマン銀行占拠事件(英語版)やアブデュルハミト暗殺未遂事件(英語版)のように、国際社会の注目を集めるためのテロリズムに訴える者も現われた。そして、アルメニア人の強硬化はトルコ人による一層の反発を招き、さらなる虐殺へもつながった。 しかし、専制主義者のアブデュルハミトを敵視していたのはアルメニア人だけではなく、1908年7月にはサロニカ駐留軍の青年将校らによって青年トルコ人革命が引き起こされた。革命指導層の「統一と進歩委員会」は、ミドハト憲法復活と即時の議会(アラビア語版)開設を認めさせ、さらにアブデュルハミトを廃して、その弟メフメト5世による第二立憲時代(英語版)を開始させた。 当初、この専制の終焉には帝国内のあらゆる民族・宗教の人々が歓喜し、その関係は劇的に改善した。ダシュナク党も新たな立憲制下での民主化に期待を寄せ、活動路線を帝国内での自治獲得へと穏健化させて、統一と進歩委員会とも協力関係を結んだ。旧体制護持者の多くいたキリキアでは、なおも1909年4月のアダナ虐殺(英語版)で2、3万人のアルメニア人が犠牲となったが、この裁判ではムスリムの側により重い処罰が下るなど、政権とアルメニア人の関係はこの段階では悪化していなかった。
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