第一次西武時代とは? わかりやすく解説

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第一次西武時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:18 UTC 版)

松坂大輔」の記事における「第一次西武時代」の解説

1999年4月7日東京ドームでの日本ハムファイターズプロ先発1回裏3番片岡篤史に対して155km/hのストレート三振奪い、8回2失点で初勝利を挙げデビュー飾った前年パ・リーグ史上最多年間四球記録し選球眼良さ知られていた片岡のこの1球における豪快な空振りプロでも変わらぬ怪物”ぶりを示す映像資料として放送される。この試合では、5回裏にマイカ・フランクリン投じた151km/hのストレート胸元への際どいコース行き、これで激高したフランクリンマウンド詰め寄ろうとして乱闘寸前なりかけたものの、それに対して松坂一切動じ様子見せず逆に笑顔浮かべてさらにフランクリンにらみ返すという強心臓ぶりも見せつけた。4月21日千葉ロッテマリーンズ戦では黒木知宏投げ合い0-2惜敗。この試合後に「リベンジします」と宣言した松坂は、4月27日ロッテ戦で再び黒木投げ合い1-0プロ完封記録しリベンジ果たした。このことから、松坂の「リベンジ」は、プロ同期でともに新人王をとった上原浩治読売ジャイアンツ)の「雑草魂とともに同年新語・流行語大賞年間大賞選ばれている。5月16日オリックス・ブルーウェーブ戦ではイチローとの初対決話題となり、3打席連続三振(1四球)とほぼ完璧に抑えた試合後のヒーローインタビューでは「プロでやれる自信から確信変わりました」と語った7月24日行われたオールスターゲーム第1戦に先発し3回投げ高卒新人としては史上最多となる5奪三振記録3回表に味方失策によって2点失い自責点0ながら敗戦投手となったものの、この試合優秀選手賞受賞しオールスター新人賞受賞した7月には月間MVP受賞したが、高卒新人選手月間MVP受賞したのは1986年9月受賞した清原和博以来2人目で、18歳10か月での受賞は、2015年8月髙橋光成18歳6か月受賞するまで最年少記録だった。この年最終的に16勝を挙げて最多勝獲得高卒新人での獲得は、両リーグ通じて1954年宅和本司南海以来45年ぶりの記録である。また、規定投球回数到達した投手の中では最高の勝率記録したゴールデングラブ賞高卒新人としては史上初となるベストナイン受賞し高卒新人投手としては堀内恒夫以来33年ぶりとなる新人王輝いたまた、2000年シドニーオリンピックの野球競技アジア最終予選第20回アジア野球選手権大会)に参加し9月15日チャイニーズタイペイ戦に先発古田敦也ヤクルトスワローズ)とバッテリー組み、その試合サヨナラ安打記録した高校5年先輩平馬淳東芝)からも叱咤激励され続け1失点完投勝利を挙げて日本オリンピック出場大きく貢献した2000年は、津野浩以来15年ぶりに10代での開幕投手務め小野晋吾ロッテ)との最多勝争い制して14勝を挙げ2年連続最多勝自身初の最多奪三振獲得した8月にはプロアマ混成シドニーオリンピック野球日本代表選ばれ9月17日アメリカ合衆国戦に先発10回2失点好投披露するも、チーム延長13サヨナラ負け。中5日先発した9月23日韓国戦では、初回から4点失ったその後立ち直り、計161球を投じて9回5失点にまとめるも、またしてもチーム延長の末に敗れた。中3日で再び韓国対戦した9月27日3位決定戦では、具臺晟投げ合い0-0投手戦続いたが、8回裏李承燁痛恨適時二塁打打たれるなどし、3失点完投負け日本オリンピック野球初めメダル逃す結果となったオフベストナインゴールデングラブ受賞した9月13日当時交際中の柴田倫世自宅マンション前にて、球団名義のセルシオ(UCF21後期型)で駐車違反犯すこの年8月にも時速50kmオーバースピード違反一発免許停止状態になっていたこともあり、身代わりとして西武広報課長の黒岩彰出頭松坂柴田交際スクープしたこの写真週刊誌記事によって、身代わり出頭明らかになり、松坂道路交通法違反無免許運転駐車違反)、黒岩犯人隠避疑い東京地検書類送検され、略式起訴により罰金195000円有罪判決を受ける当時球団社長小野賢二および黒岩責任取って辞表提出する事態になり、松坂当時埼玉県警察から交通安全キャンペーンイメージキャラクター起用されていたこともあり、この件は世間から激しく批判された。球団側は松坂無期限自宅謹慎処分したものの、謹慎処分1か月足らず解除された。後にこの事件について開かれた記者会見では、松坂は「駐車違反をしたことは申し訳ない黒岩課長身代わり出頭後で知った」と話し黒岩は「レッカー移動され乗用車球団のもので、自分管理しており、出頭自分判断だった」と話した2001年1515敗の成績で、3年連続最多勝獲得新人からの3年連続最多勝高卒新人では史上初。勝敗同数最多勝1937年秋の野口明(1515敗)、1984年遠藤一彦1717敗)に次ぐ史上3人目だった(ちなみにこの15敗はこの年リーグ最多敗戦最多勝最多敗戦同時記録1995年キップ・グロス以来パ・リーグ日本人投手では1981年今井雄太郎以来記録である)。さらに最多奪三振獲得しベストナインゴールデングラブ受賞21世紀初の沢村賞受賞したが、負け数も多かったため、選考委員からは反対意見出た結局、両リーグ唯一の15勝投手であることや、240回1/3という圧倒的な投球回数など評価されての選出となった藤田元司委員長当時)は、「松坂150キロ越え豪速球沢村さんを彷彿させる。将来松坂対す期待含めて選んだ」とコメントしている[要出典]。 2002年開幕6連勝という順調なスタート切ったが、5月13日大阪近鉄バファローズ戦で右肘を痛め何度復帰したが、本来の投球戻らず長期離脱した日本シリーズでは第1戦に先発、第4戦にリリーフ登板したいずれも敗戦投手となった2003年自己最多タイ16勝を挙げ最多奪三振と、自身初め最優秀防御率タイトル獲得ゴールデングラブ受賞したアテネオリンピック野球アジア予選では、11月6日チャイニーズタイペイ戦に先発し、7回無失点好投勝利オリンピック出場条件である2位以内をほぼ決定づけ、大会最優秀投手にも選ばれた。 2004年は、ロッテとの開幕戦初回先頭打者波留敏夫初球叩かれヒット打たれ出塁許し、共に日本プロ野球打席となった4番李承燁5番ベニー・アグバヤニ適時打打たれ早々失点、この試合敗戦投手となった7月10日オールスターゲーム第1戦で2番手として登板し、2イニング無安打無失点で4奪三振という好投披露し自己最速タイとなる156km/hも記録した本塁打を2本以上打った選手がいなかったこともあり、松坂がこの試合MVP輝いたアテネオリンピック野球日本代表選ばれ8月17日現地時間)のキューバ戦に先発。4回にユリエスキ・グリエル打球右腕に受けるアクシデント見舞われるも、8回まで無失点抑える力投披露し完封期待された。結局、9回に3点失ったものの、石井弘寿ヤクルト)のリリーフ逃げ切り松坂オリンピックでの初勝利を手にした。中5日先発した8月24日準決勝オーストラリア戦では、8回途中まで1失点好投報われず、0-1惜敗して金メダルの夢はついえたチーム翌日カナダとの3位決定戦勝利したため、松坂銅メダリストとなったまた、シーズンでは前述通りオリンピックチーム離れたこともあり、10勝6敗の成績ではあったが、最優秀防御率タイトル獲得しゴールデングラブ受賞したレギュラーシーズン2位終わったが、この年から導入されプレーオフの第1ステージ3位日本ハム対戦。第1戦では、8回途中7失点打ち込まれたものの、打線援護勝利投手となった福岡ダイエーホークス争った第2ステージでは第2戦に先発し完封ペースだったが、打線大量援護もあり、6回無失点余力残して降板。これが功を奏し最終の第5戦に中3日先発が可能となって、6回1失点投球で、勝利投手にはなれなかったものの、チーム延長10回の末に4-3勝利しリーグ優勝果たした(この時代プレーオフ第2ステージ勝利チームリーグ優勝となっていた)。中日ドラゴンズとの日本シリーズでは、まず第2戦に先発立浪和義同点3点本塁打打たれるなどし、6回1/3を8失点敗戦投手。2勝3敗と王手かけられた第6戦では、苦しみながらも8回2失点でしのぎ、勝利投手となって逆王手をかけた。翌日の第7戦には中継ぎ3番手として登板し1イニングを無失点抑えて日本一貢献。この直後柴田倫世との結婚発表11月11日日米野球では第6戦に先発し、1失点完投勝利MLB選抜チーム相手完投勝利は、荒巻淳毎日以来51年ぶり史上2人目の記録となった2005年5月18日セ・パ交流戦阪神タイガース戦でプロ野球選手として阪神甲子園球場初登板。高校時代には同球場15連勝被本塁打0という記録持っていたが、桧山進次郎先制2点本塁打打たれ試合2-3惜敗この年防御率リーグ3位優れていたにもかかわらず1413敗と負け数もかなり多かった最多奪三振獲得しゴールデングラブ受賞したが、打線援護少なく野手失策多かったため、6月27日日本ハム戦後には「球際に弱い選手が多い。僕も含めてですが、一つ一つプレーが軽すぎる。若い選手が多いんだから、もっとガムシャラにやってほしい」と野手批判とも受け取られかねない発言をしたが、後日には野手ミーティング詫び入れたという。評論家からは「打線援護がないのは、投球リズムが悪いからだ」と指摘され改善目指した。オフにはスコット・ボラス代理人としポスティングシステムでのメジャー挑戦訴えたが、球団制度行使否認した12月には第1子誕生した2006年開幕前の3月開催され第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表選出された。3月4日チャイニーズタイペイ戦では4回1失点3月14日メキシコ戦では5回無失点、そして3月20日キューバとの決勝戦では、試合前に首を痛めながらも気合投球で4回1失点抑え先発したすべての試合勝利投手になった(球数制限があったため、先発勝利条件が5イニング以上という規定がなかった)。結果的に大会最多となる3勝、防御率1.38という成績高く評価され大会最優秀選手MVP)に選ばれた。MVPトロフィー受け取った直後インタビューでは、「MVPとったんですけど、これ(=トロフィー円盤状の飾り)もうとれちゃったんですね。この辺アメリカっぽいですけど」と苦笑いしつつ、「後で自分アロンアルフアくっつけて直しますけど」とコメントしその後実際に販売元東亞合成から松坂アロンアルフア大量に送られた。シーズンでは6月9日セ・パ交流戦阪神戦で1失点完投勝利を収め高校時代大活躍した甲子園でのプロ勝利を記録し、自ら本塁打打ったバッティング後述)。また、6月16日セ・パ交流戦横浜戦で、江川卓所要193試合)を抜きドラフト制導入後最速191試合)の100勝を達成するその後同年8月25日上原浩治が同じ191試合での100勝を阪神戦にて達成し松坂記録最速タイとなった)。10月7日ソフトバンクとのプレーオフ1ステージ初戦先発。6安打打たれ4死球与えたが、斉藤和巳との投げ合い制し1-0完封勝利挙げるチームその後2連敗し第1ステージ敗退したこの年ゴールデングラブ受賞している。 オフにはポスティングシステム行使容認されるニューヨーク・メッツニューヨーク・ヤンキーステキサス・レンジャーズ入札参加したことが報じられた。

※この「第一次西武時代」の解説は、「松坂大輔」の解説の一部です。
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