第一次能代大火の概要
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1949年(昭和24年)2月20日0時35分頃、市街西部の清助町新道の木工所から出火した。第一発見者は当時の能代市消防団常備消防部の団員で、望楼からの発見である。この冬は暖冬で市内にほとんど積雪がなく、また火災発生前日より次第に風が強くなってきており、夜半には粉雪が舞い13m/sの強風が吹いていた。火災が懸念される気候のため、消防ではポンプ車を警戒のためサイレンを鳴らして巡回させていたが、走り去ったすぐ後に火災が発生した。当日の気象状況は以下の通り。 湿度 - 48% 気温 - 5℃ 風向 - 西風、1時半から北西、4時から西風 風速 - 13m/s、最大18m/s、突風 20m/s 火災の発見を受けてただちに当時保有していた4台のポンプ車のうち3台(残る1台は東京に修理に出していた)が出動し、1台が火元の消火にあたった。発見が早かったことから一旦は消火しかかったものの、中途で130mほど東に離れた別の木工所の柾葺き屋根に飛び火。以降も火の粉が家々を舐めるように横に拡がっていき、同時多発的に発火していった。出動した3台のポンプ車のうち別の1台も火に包囲されて動けなくなり、火の回りが速く2台のポンプ車では対処不能な状況となった。午前2時を過ぎる頃には、秋田・土崎・五城目・船越・鷹巣・大館などから応援の消防車15台が駆け付けたが、市外から来たため貯水槽の場所がよく分からなかったり、あるいはそもそも貯水槽の周囲が火に巻かれて近づけなかったりしたため、機能不全であった。米代川の自然水利も全く使用することが出来なかった。午前2時40分には能代市警察署から最後の電話通信が送られ、電話交換手が退避して間もなく警察署が焼失した。 午前3時を過ぎて火勢はさらに東進し、五能線を越えて日吉神社や営林署も焼尽した。日吉神社では避難してきた市民が家財を運び込んできていたが、これらも軒並み焼失した。火勢はさらに秋木下駄工場にも飛び火し、駆けつけた職員や工員たちにより必死の消火が試みられたが、午前4時頃にボイラー室や配管が焼けて消防機能を喪失した。結果として火災は当時の能代市の中心街や基幹産業であった木材加工の工場をほとんど焼き尽くし、また多くの家屋も焼失したが、渟城第二小学校前を防御線として破壊消防まで行ったことで、以南の柳町、畠町方面及び能代駅方面への延焼は食い止められた。7時間近くに亘って続いた火災は、午前7時頃になってようやく鎮火し、秋木工場の鎮火はやや遅れて午前8時頃である。
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