第一次総攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 21:40 UTC 版)
「ガダルカナル島の戦い」の記事における「第一次総攻撃」の解説
9月7日までに、川口支隊は一木支隊の第2梯団と共にガダルカナルに上陸した。川口支隊の一員として8月末に上陸した兵士は当時の様子を「わたしたちを出迎えたのが、一木先遣隊の生き残りでしたけど、とても兵隊なんてものじゃない。痩せ衰えたヨボヨボの連中が杖にすがって、なにか食うものをと手を出しましてね。米をやると、ナマのままポリポリかじるんです。……(中略)……。『ワシらが来たけん、もう安心バイ』と元気をつけたんです。ええ、十日もたたんうちに、自分たちがおなじ姿になるとも知らんで」。そして10月中旬に上陸した第2師団を「飯盒と水筒だけの、みすぼらしい姿」で出迎えるが、上陸してきた兵士からは「ごくろうさん。ワシらが来たから安心しなさい」となぐさめられたという。最後に上陸した第38師団の兵士もこれと同様の話を語っている。 川口少将の主張により、60隻の小型舟艇に分乗し島づたいにガダルカナルに向かった別働隊(約1,000名)は、空襲や故障で被害を受けたうえ分散状態になり、本隊とは飛行場を挟んで反対側にたどり着いてしまい、総攻撃には間に合わなかった。駆逐艦を使った本隊もアメリカ軍の空襲のため、兵員はともかく、重火器は高射砲2門・野砲4門・山砲6門・速射砲14門しか揚陸できなかった。陸上輸送の困難から、このうち実際に戦闘に参加した砲は、さらにわずかとなる。 川口支隊は、一木支隊の戦訓から、正面攻撃を避けるべくヘンダーソン飛行場の背後に迂回してジャングルから飛行場を攻撃することを試みた。しかし、そのために必要な地図の準備はなく、険しい山岳地形の密林に進撃路を切り開くために各大隊の工兵部隊は通常装備を捨てて、つるはしとスコップによる人海戦術で総攻撃の当日まで啓開作業を行った。完成した粗末な啓開路では重火器や砲弾の運搬は不可能であり、その大部分は後方に取り残された。また、作業により兵は疲労困憊していた。 9月12日午後8時を期して「中央隊(左、中、右と3個大隊が別々に行動)」、「左翼隊(岡明之助大佐率いる舟艇機動の第124連隊第2大隊)」、「右翼隊(一木支隊の残存集成部隊)」が同時に米軍陣地に攻撃を行うことになった。しかし、夕方までに攻撃位置につけたのは僅か中央隊の一部だけであった。 12日夜には川口支隊支援のために軽巡洋艦川内、駆逐艦敷波、吹雪、凉風がルンガ泊地に突入し、砲撃を行った。 12日の総攻撃は各部隊バラバラに攻撃を行い、実質的な第一次総攻撃(アメリカ名:「血染めの丘(エドソンの丘)の戦い」Battle of Edson's Ridge)が行われたのは13日の夜半から14日の未明にかけてである。12日から14日に至る間、川口支隊の左翼隊とその後詰の舞鶴大隊は米軍の集中砲火の前に前進を阻まれ戦いに至らず、各隊は鉄条網と火線を越えられずに散発的な戦いのみに終始した。 激戦となった中央隊左翼を担当した田村昌雄少佐率いる青葉大隊の一部が、中央隊右翼国生大隊と合流し米軍陣地の第一線を突破し、さらに3個中隊のうちの1個中隊がムカデ高地の端からヘンダーソン飛行場南端に達し、付近の建設中の倉庫などの拠点を確保した。だが、混戦のすえに日本軍は敗走した。川口支隊と対戦したアメリカ軍は700人だった。 この戦闘による川口支隊の戦死者・行方不明者は約700名で、一木支隊と比べれば損耗率は低かったが、激戦となったのは国生大隊と田村大隊の2個大隊だけであり、国生少佐、水野少佐を含め中隊長クラスの中堅将校が戦死した。また、再起を画してアウステン山からマタニカウ川西岸にかけて負傷者を含めた5,000名余りが駐屯することになり、兵站線の細い日本軍は、以後食料・弾薬の補給不足が深刻化し、以後ガダルカナル島(ガ島)はさながら「餓島」の様相を呈することになる。 9月23日から9月27日の間に、マタニカウ河東岸に駐屯する川口部隊に対しアメリカ軍は9隻の舟艇による逆上陸を含む6度の攻撃を行うが、川口部隊の第二大隊・第三大隊に撃退され、アメリカ軍は多数の損害をだして後退した。 ニューギニア戦線では9月16日に日本軍がポートモレスビーの手前から撤退を開始した。
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