第三軍司令部
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無能論の主な根拠には以下のものがある。 単純な正面攻撃を繰り返したこと。 兵力の逐次投入、分散という禁忌を繰り返したこと。 総攻撃の情報がロシア側に漏れていて、常に万全の迎撃を許したこと。 旅順攻略の目的はロシア旅順艦隊を陸上からの砲撃で壊滅させることであったにも拘わらず、要塞本体の攻略に固執し無駄な損害を出したこと。 初期の段階では、ロシア軍は203高地の重要性を認識しておらず防備は比較的手薄であった。他の拠点に比べて簡単に占領できたにもかかわらず、兵力を集中させず、ロシア軍が203高地の重要性を認識し要塞化したため、多数の死傷者を出したこと。 児玉源太郎が現場指揮を取り、目標を203高地に変更し、作戦変更を行い、4日で203高地の奪取に成功したこと。 など述べられているが、最近では新資料の発見や当事者である第三軍関係者の証言・記録などから、上記の点に対して 第一次総攻撃以降は攻撃法を強襲法から塹壕を掘り進んで友軍の損害を抑える正攻法に切り替えている。北東方面も203高地のある北西方面も同等の防御機能を持っている。 旅順攻略の目的が「艦隊撃滅が目的だった」というのは誤り。また第一次総攻撃時点で第三軍には重砲にそのような能力はない。満州軍の方が上級司令部である以上責任が大である。 203高地は第二軍の南山攻略戦後から防御強化の工事が始められている。第一次総攻撃時点で第三軍の12センチ榴弾砲の砲撃に耐えうる強固さを持っていた(攻城砲兵司令部参謀佐藤鋼次郎中佐談)、守備兵力も9月時点で613名だった203高地は12月の最終攻撃時で516名である。要塞北西方面は鉄道もなく主要な道路もないので部隊転換が難しい。 同士討覚悟の連続砲撃はすでに攻城砲兵司令部によって行われていた、と反論されている。 他にも、陸軍が手本にした仏独両陸軍からして要塞攻略の基本は奇襲か強襲を基本としている。
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