新資料の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 00:25 UTC 版)
「エヴァリスト・ガロア」の記事における「新資料の発見」の解説
1962年、アメリカ合衆国ニューヨーク州のイサカで科学史の国際会議が行われた時、ウルグアイの数学者カルロス・アルベルト・インファントッシによって、決闘の原因と言われていた女性の素性が明らかとなった。彼女の名はステファニー・フェリス・ポトラン・デュ・モテル(1812年5月11日 - 1893年1月25日)といい、ガロアが最後に暮らしたフォートリエ療養所の医師で所長だったジャン・ルイ・ポトラン・デュ・モテルの娘であった。彼らは親子共に親切な人物で、ガロアは次第にステファニーに恋愛感情を抱くようになって求婚したらしく、それに対する5月14日付でのステファニーによる断りの手紙の文面が、ガロア自身の筆跡でシュヴァリエへの書簡の裏に転記されていた。その内容は文面を見る限り礼儀正しいものであり、少なくとも残された文章を見た印象では彼女が「つまらない色女」と表現されるような人物などではなく、そもそもガロアの遺書自体が真実を記したものとは言い切れないことも明らかになった。なお、ステファニーは1840年1月11日に言語学者のオスカー・テオフィル・バリューと結婚している。 1993年、イタリアの数学史研究家ラウラ・トティ・リガテッリはガロアの生涯に関する著書『バリケードの中の数学』(Matematica sulla barricate)を発表した。彼女は新資料として、ガロアの死に関する記事が掲載された、1832年6月1日付のリヨンの新聞『先駆者』(Précurseur)を挙げている。記事にはガロアの年齢を22歳であったとか、ルイ・フィリップ乾杯事件で有罪になったなどの誤記が含まれるものの、文章自体は良くまとまったものであった。その記事によれば、ガロアはかつて同時に法廷に出たことのある友人「L.D.」によって殺され、その際は用意した拳銃の片方にだけ弾丸を込め、くじを引いてどの拳銃を使うかを決めたということである。なお前述の通り、ガロアと一緒に法廷に出た人物といえばデュシャートレしかいない。その上でリガテッリは、決闘であるならば勝つ可能性もあるのに、ガロアの死を確信した遺書に対する不自然性を指摘し、決闘の真相を次のように解釈している。 ステファニーに失恋したガロアは、「民衆の友の会」の会員と共に民衆を蜂起させる方法を考えていた時、ガロアが自分が犠牲となってその機会を作ることを提案した。(作中では「D」と名前を明確にしていないが)デュシャートレがその相手を務めることとなり、ガロアは共和主義者の感情を煽るためにわざと無念を強調した遺書をしたためた。そして、予定通り決闘を装った工作が行われてガロアは死亡し、あとは葬儀において蜂起するだけとなった。ところが葬儀の当日、フランスの英雄であるジャン・マクシミリアン・ラマルク将軍の訃報が伝わり、ならばそれを契機に蜂起した方が良いと急遽予定が変更された、ということである(その後に起きた六月暴動の様子はヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』に詳しい)。
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