小型舟艇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 08:49 UTC 版)
作戦に参加した機動艇のほとんどは炎上・沈没した。最初に炎上したのは船団右側先頭の機動艇であった。右側列では何隻かの機動艇が任務を達成している。「443号艇」は港湾側戦力の指揮船で、陸地からわずか3mまで接近したものの、銃撃や手榴弾の投擲を受けて炎上、同艇の乗員は付近を航行していた「160号艇」によって救出された。「160号艇」は魚雷武装艇の1隻で、湾内に停泊中と報告されていた2隻の大型タンカーを捜索していた。生還した「160号」艇長T・ボイドおよび「443号」艇長TDLプラットの両中尉は後に殊勲章(DSO)を受章している。この2隻以外の港湾側戦力で目的地へ到達したものは皆無で、いずれも撃沈・炎上により喪失した。「192号艇」および「262号艇」もまた炎上し、生存者は両艇あわせてわずか6名であった。「268号艇」も爆沈し、生存者は1名のみであった。「キャンベルタウン」乗員の避難にあたっていた「177号艇」も、河口を出たところで撃沈された。魚雷武装艇の1隻だった「269号艇」は、ドイツ軍を上陸地点から引き離すべく囮としてロワール川を上るという任務を負っていたが、「キャンベルタウン」から離れてまもなく被弾し、舵を破壊された。その修理に10分を費やした後、敵の武装漁船と接触し、戦闘の末にエンジンが炎上した。 「306号艇」は砲火をくぐり抜けて上陸地点に接近した機動艇の1隻である。第1コマンド部隊所属のトーマス・デュラン(英語版)軍曹は「306号艇」の後方機銃座についており、砲兵陣地およびサーチライトの破壊が任務であった。やがて「306号艇」は沖へ逃れたが、そこでドイツ海軍の水雷艇「ヤグアル(ドイツ語版)」に至近距離から攻撃を受けた。デュランは戦闘の中で重傷を負い、「ヤグアル」の艇長から降伏勧告を受けたが、それでも銃座から離れようとはしなかった。そして弾倉が空になり、ドイツ兵らが機動艇に乗り込んでくるまで、彼は戦闘遂行を諦めようとしなかった。デュランは度重なる負傷が元で死亡したとされており、ヴィクトリア十字章が死後追贈されている。 コマンドス指揮班の上陸後、ライダー中佐は「キャンベルタウン」がうまく衝突したかどうかを自ら確認に向かった。この折、「キャンベルタウン」乗組員の一部が機動砲艇に救出されている。確認を終えたライダーは機動砲艇の指揮所に戻り、高速魚雷艇に救出任務を引き継ぐと共に旧入口に対する雷撃開始、および成功確認後の撤退を命じた。高速魚雷艇はまもなく撤退し、河口付近で撃沈された機動艇乗員の救助にあたっていたが、その間に砲撃を受け炎上した。ドックに残っていた機動砲艇は、ドイツ軍側の沿岸砲と砲戦を繰り広げていた。この時、機動砲艇の前方2ポンド砲にはウィリアム・アルフレッド・サベージ(英語版)上等水兵(Able seaman)が就いていた。ライダーは次のように報告している。 支援攻撃の割合は十分に思える、ティルピッツ・ドック内に展開したコマンドスは確実に抵抗を制圧しつつあるに違いない。敵の砲火に明らかな弱体化が見られる。 この戦闘の間、ライダーは7隻ないし8隻の炎上している機動艇以外、周囲に船影を見つけられなかった。その後、彼はヴュー・モールと旧入口の上陸地点が共にドイツ軍に奪還されている事を確認した。コマンドスの救出も非常に難しくなったと判断した彼は機動砲艇を沖へ撤退させた。撤退中も機動砲艇はドイツ軍のサーチライトに照らされ続け、少なくとも6回被弾している。まもなく機動艇270号艇と合流すると、270号艇に命じて煙幕を張らせて離脱を続けた。沖へ進むにつれて小口径砲による砲撃は止んだが、より大口径の沿岸砲による砲撃は引き続き行われた。およそ6.4km沖まで逃れる頃、ドイツ側の最後の一斉砲撃のうち1発が機動砲艇の甲板に着弾し、サベージ上等水兵は戦死した。彼は後にヴィクトリア十字章を追贈されている。彼に送られた十字章の勲記は彼の勇気を称えると共に、機動砲艇の露天甲板作業に従事した多くの無名兵士の勇気にも触れている。
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