変革の時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:58 UTC 版)
「クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン)」の記事における「変革の時」の解説
1539年、イングランド王ヘンリー8世はクライストチャーチを、修道分院から首席司祭 (Dean) と大聖堂参事会 (Chapter) からなる大聖堂に変え、またクライストチャーチが王による新しい構造(アングリカニズム)をはっきり支持することを確実にするために行動した。 エドワード6世は1547年、大聖堂の人員増強のための資本と、国王の年次資産をクワイヤ学校のために供給した。また、エドワード6世の治世では、聖パトリック大聖堂は公式に抑圧され、1547年4月25日、それらの銀、宝石や装飾品はクライストチャーチに移されその首席司祭と聖堂参事会のものとなった。この出来事はメアリー1世治世下に1558年4月27日付けで発行された公文書によって終わりを告げた。公文書は首席司祭のトマス・レヴェロスと聖パトリック大聖堂の聖堂参事会の間で交わされ、クライストチャーチ大聖堂に属する道具、家財、楽器、その他、およびクライストチャーチの首席司祭および聖堂参事総会の所有しているものの聖パトリックへの譲渡もしくは受領という内容で構成されていた。 メアリー1世、そして後のジェームズ1世もまたクライストチャーチへの寄進を増やした。その一方で1551年には礼拝が従来のラテン語に代わって英語によって行われ、さらに1560年には聖書が同じくラテン語から英語で読まれた。いずれもアイルランドで初めてのことである。
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