変革と復調
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 14:10 UTC 版)
2010-2011シーズンは6月から9月頃まで長久保裕をジャンプ専門のコーチにつけ6種類全てのジャンプの矯正に取り組む。9月から佐藤信夫コーチに師事し、ジャンプの矯正も続けた。GPシリーズNHK杯、エリック・ボンバール杯では新しく変えたジャンプに苦しみ、2大会とも表彰台に登れずGPファイナル進出を逃した。1か月後の全日本選手権では復調し、SP1位、フリー2位の総合2位となる。 四大陸選手権ではSPで冒頭の3回転アクセルが着氷に乱れたもののフリーでは成功させ、シーズンベストを大幅に更新し、安藤に次いで2位となった。連覇のかかった世界選手権は東日本大震災の影響により1か月先に延期、その間に被災地の惨状を目の当たりにし、「こんな時に大会に行ってもいいのだろうか?」と練習に身が入らなくなった。みかねた佐藤コーチから1週間の休養を与えられたが、重要な時期に食が細くなり、いつもより体重が4・5kg減少した。大会本番では佐藤コーチから3回転アクセル回避を提言されたが、浅田は自分の信念を貫き通した。結果はショート7位、フリー6位の総合6位に終わった。 2011-2012シーズンはGPシリーズ初戦のNHK杯で2位、ロステレコム杯では日本選手最多となるGPシリーズ8度目の優勝を果たし、3季ぶりにGPファイナル進出を決めた。だが、カナダでのGPファイナル開幕直前、以前から体調不良だった母親の健康状態が悪化したとの日本からの連絡を受けて帰国、ファイナルを欠場した。その後母は肝硬変のため死去、48歳没。浅田はその死の際に間に合わなかった。母親の葬儀翌日の12月13日から練習を再開し短期間の調整で臨んだ全日本選手権では、2年ぶり5度目の優勝を果たした。 四大陸選手権ではSP、フリー共に同シーズン中封印していた3回転アクセルに挑戦したが、どちらも回転不足と判定された。SPではトップに立ったものの、フリーではルッツやサルコウなどのミスも響き2位となった(ただし総合点ではシーズンベストを更新した)。世界選手権ではSP・フリー共に3回転アクセルを含むジャンプのミスが重なり、2年連続の総合6位に留まった。 シーズン終了後にはスケートへの意欲を失い、辞めることも考えたという。その後、ハンガリーでバレエの指導を受けるなど心身のリフレッシュを図り、8月に入ってから本格的に練習を再開した。 2012-2013シーズンは中国杯、NHK杯とGPシリーズで連勝、だがNHK杯後に疲労から発症した腰痛が悪化してしまう。腰痛が完治していない状況下で臨んだGPファイナルでは4年ぶり3度目の優勝を果たした。全日本選手権でも2度目の2連覇と6度目の優勝を果たし、世界選手権と四大陸選手権の代表に選出された。四大陸選手権では、SPで冒頭の3回転アクセルを成功させ、バンクーバーオリンピックでマークした自己ベストに迫る総合205.45点で3年ぶり3度目の優勝を飾った。世界選手権はSPで6位と出遅れたが、フリーでは自己ベストを6年ぶりに更新し2位となる。総合3位で3年ぶりの表彰台に立った。このシーズンは出場した国際大会と全日本選手権を合わせた6戦中5勝を挙げ、復活を印象づけた。 2013年4月、ソチ冬季オリンピックのシーズンを限りに引退する意向を表明した。 2013-2014シーズン、スケートアメリカで優勝。シングルの選手でファイナルを含むグランプリシリーズ全7大会を全て制したのは史上初で、全体を通じても申雪/趙宏博組に続き2組目である。続くNHK杯も2連覇、ファイナルでは歴代最多タイ記録となる4度目の優勝を果たした。
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