追撃戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 15:25 UTC 版)
勝利を収めた蜀軍だが、その後しばらく膠着状態が続いた。曹叡は使者を派遣し、麦の監視を命じて蜀軍の食料調達を警戒させ、魏の食料を充足させ、一方で援軍を次々に送った。また、長雨が続いたことから蜀軍に兵糧が続かなくなり、漢中にて食糧輸送を担当していた李厳は狐忠・成藩らを派遣してその旨を伝えさせた。そのため兵糧が続かないことを理解した諸葛亮は、夏6月に撤退を開始した。司馬懿が張郃に追撃するように命じたが、張郃は「軍法にも敵を囲む際には必ず一方を開けよとある。撤退する軍を追撃してはなりません」と反発した。しかし司馬懿は聞き容れず、止むを得ず張郃は出撃した。蜀軍は高所に弓と弩兵を伏兵として配置しており、張郃が追いつくと弓矢を乱射した。軍が弓矢の的になる中、張郃にも矢が右足に刺さり、これが重症となって戦死した(命中した個所は魏略では右腿、魏志では右膝となっている)。 『太平御覧』巻291に引く『漢表伝』によれば、蜀軍は樹木の木肌を削って「張郃此の樹下に死せん」と大書し、その両側に強弩数千を伏せておいた。追撃軍がこの樹を見つけて不審に思い、張郃自ら上記の文章を読んだ途端、弩兵が一斉射撃し張郃を射殺したという。 ただし、この内容は『史記』孫臏伝で、孫臏が龐涓を誘殺した際と全く同じものであり、物語を引き立たせるために過去の故事を引き写した可能性を指摘されている。
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