追撃の頓挫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 09:24 UTC 版)
大本営は作戦の制限ラインを蘭封までと定めていたが、6月2日、北支那方面軍はその線を越えた西方(中牟、尉氏)への追撃作戦を命令した。第14師団は開封・中牟、第16師団は尉氏へ向かって西進を開始した。 中国軍第1戦区の主力はすでに京漢線以西への撤退を急いでいた。しかし、このまま京漢線の要地(鄭州・新鄭)に日本軍がたどりつきまっすぐ南下すれば、漢口が脅威にさらされる。そこで第1戦区副司令劉峙は、司令長官程潜に対し「黄河氾濫」によって日本軍の動きを止めることを進言した。6月4日、蔣介石の承認を得ると、中牟北方の三劉寨付近に部隊を送り堤防爆破の準備に取り掛かった。第14師団は6月5日に開封を占領、一部の追撃隊は6月7日に中牟を占領した。この日の夜、中国軍は堤防を爆破したが黄河は氾濫しなかった。このため、更に西方の京水鎮付近・花園口堤防を6月9日に爆破したが、これも効果無しとみられた。しかし6月11日、未明からの大雨で黄河は増水し、夜には三劉寨の破壊口から濁流が溢れ出した。 詳細は「黄河決壊事件」を参照 中牟に進出していた第27旅団(歩兵第2連隊・歩兵第59連隊)や尉氏の第16師団は浸水により孤立した。このため第2軍司令部が工兵隊を派遣し、部隊は鉄舟により救助された。また、工兵部隊は堤防の修理や住民の救助にもあたった。 流水は南方の周家口まで達していたが、6月17日には冠水地域が減少し始めた。まだ本格的な雨季に入っておらず、11日の雨で一時的には氾濫したが、その後は晴天が続いたため暑さで水が蒸発してしまった。徐州まで浸水させ日本が津浦線を使えなくなることを期待していた中国側にとってその軍事的な効果は小さかったが、日本軍の前進をくい止めることには成功した。
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