追放、そして遺産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 05:53 UTC 版)
「エカテリーナ・ダーシュコワ」の記事における「追放、そして遺産」の解説
1789年、フランス革命が勃発し、女帝との間に言論の自由をめぐり亀裂が生じるようになる。1793年、雑誌「ロシア演劇」をめぐり女帝と対立したダーシュコワは、ロシア・アカデミー総裁辞職を願い出る。1794年、エカテリーナ2世はダーシュコフに対して、休暇を勅許する。この間、家庭的にも長女アナスタシアの負債問題や、将来を期待した息子パーヴェルの結婚問題などに忙殺される。また1791年、パーヴェルの引き立て役だった英雄ポチョムキンが死去、兄で商務長官のアレクサンドル・ヴォロンツォフもアレクサンドル・ラジーシチェフの逮捕・流刑が元で政界を引退するなど彼女の政治的基盤も揺れ動いた。そして1796年11月6日、エカテリーナ2世が崩御し、パーヴェル1世が即位する。パーヴェル1世は、ダーシュコワを正式に解任すると共に、ノヴゴロド県の息子の所領に蟄居を命じる。1801年、パーヴェル1世が暗殺され、アレクサンドル1世が即位する。祖母エカテリーナに薫陶されたアレクサンドル1世は、ダーシュコワの復帰を要請するが、ダーシュコワは、高齢と健康状態を理由に固辞した。同年7月最高女官長として、アレクサンドル1世の戴冠式に列席した後、公職から退く。その後は、雑誌「啓蒙の友」にロシヤンカ(ロシア女)のペンネームで寄稿する傍ら、造園をもっぱら趣味とした。 1803年、親友ハミルトン夫人の姪、マーサ・ウィルモット(マーサ・ブラッドフォード)がダーシュコワの元を訪問し、後にマーサの姉であるキャサリンとともに1808年まで滞在した。1804年、姉妹の勧めで回想録を執筆する。1806年1月、息子パーヴェル・ダーシュコフ公爵に先立たれる。1807年、ダーシュコワは、父ロマンの末弟・イワンの孫のイワン・イラリオノヴィッチをダーシュコフ家の相続人とし、アレクサンドル1世の勅許を得てイワンは、ヴォロンツォフ=ダーシュコフ姓を名乗る。1810年1月4日死去。 1840年、マーサ・ブラッドフォード夫妻は、ダーシュコワ回想録をロンドンで出版する。1859年、ダーシュコワ回想録のロシア語版がアレクサンドル・ゲルツェンによって出版される。ゲルツェンは、回想録序文でダーシュコワをエカテリーナ2世と並ぶ偉大な女性として、賞賛している。
※この「追放、そして遺産」の解説は、「エカテリーナ・ダーシュコワ」の解説の一部です。
「追放、そして遺産」を含む「エカテリーナ・ダーシュコワ」の記事については、「エカテリーナ・ダーシュコワ」の概要を参照ください。
- 追放、そして遺産のページへのリンク