結婚問題
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「ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフ」の記事における「結婚問題」の解説
戦後、ウラジーミルはマドリードで暮らすようになったが、ブルターニュの地所やパリにもしばしば滞在した。 1948年8月、ウラジーミルはローザンヌで亡命ロシア人貴族の公爵令嬢レオニーダ・バグラチオン=ムフランスカヤ(英語版)と結婚した。ロマノフ家の家内法は、ロマノフ家の人間と王族出身の配偶者(単なる貴族であってはならない)との「身分相応な結婚」によって生まれた子供のみが帝位継承資格を有するとし、貴族以下の配偶者との結婚は貴賤結婚として、その結果生まれた子供に帝位継承権はないと定めていた。レオニーダの実家バグラチオン=ムフランスキー家(英語版)は旧グルジア王家であるバグラチオン家(英語版)の分枝であったが、16世紀に王家から枝分かれして以来、ロシア貴族に成り下がっていた。そしてウラジーミルとレオニーダの結婚が身分相応か否かを巡って、揉め事が起きることになった。この結論如何によって、ウラジーミルの持つロシア帝室家長およびロシア帝位請求権者の地位が、一人娘のマリヤに渡るか、それともロシア帝室内の別の縁者に渡るかが大きく左右されるためである。ウラジーミルと娘のマリヤは当然ながらこの結婚を身分相応であったと見なしている。その根拠となったのは、1783年にロシアとグルジアが結んだゲオルギエフスクの和約(英語版)で、この条約内でロシア政府はグルジアを保護国とする代わりに、バグラチオン家の王族としての身分を保障していたのである。そしてこの取り決めは1946年にロシア帝室家長であるウラジーミル自身によって「確認」されていた。 1969年、旧ロシア帝室の3つの分家の当主であるフセヴォロド・イオアノヴィチ(英語版)公(コンスタンチン分家)、ロマン・ペトロヴィチ公(ニコライ分家)、アンドレイ・アレクサンドロヴィチ公(ミハイル分家)はウラジーミルに手紙を送り、「ウラジーミルの結婚は貴賤結婚であるため、妻のレオニーダがロシア帝室の他の公たちの妻より格上とは認められない」と通告した。その年の12月23日、ウラジーミルは自分が死んだ後に娘のマリヤが「ロシア帝位の保護者」になるという宣言を出したことで、ロシア帝室のその他の人々と本格的に揉めることになった。この宣言は男子のいないウラジーミルが自分の直系子孫にロシア帝位請求者の地位を受け継がせることを狙って出したものと見なされ、分家の当主たちはウラジーミルの宣言を「家内法に抵触している」と非難した。 1991年11月、ウラジーミルはサンクトペテルブルク市長アナトリー・サプチャークの招待を受け、生まれて初めて「祖国」ロシアを訪れた。
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結婚問題
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エリザベスの治世の初めから彼女の結婚が待望されたが、誰と結婚するかが問題となっていた。数多くの求婚があったものの彼女が結婚することはなく、その理由は明らかではない。歴史家たちはトマス・シーモアとの一件が彼女に性的関係を厭わせた、もしくは自身が不妊体質であると知っていたと推測している。 エリザベスは統治のための男性の助けを必要とせず、また、姉のメアリーに起きたように、結婚によって外国の干渉を招く危険もあった。未婚でいることによって外交を有利に運ぼうという政策が基本にあったという政治的な理由や母アン・ブーリンおよび母の従姉妹キャサリン・ハワードが父ヘンリー8世によって処刑され、また最初の求婚者トマス・シーモアも斬首されたことから結婚と「斧による死」が結びつけられた心理的な要因とする説もある。一方で、結婚は後継者をもうけ王家を安泰にする機会でもあった。 彼女は50歳になるまで、幾人かの求婚者に対して考慮している。最後の求婚者は22歳年下のアンジュー公フランソワである。
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結婚問題
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「カロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン」の記事における「結婚問題」の解説
カロリーネとリストは芸術愛好家でヨーロッパ全土に大きな影響力のあるザクセン大公未亡人マリヤ・パヴロヴナの後援を受けていたにもかかわらず、その内縁関係のために人々から嫌われていた。正式な婚姻関係にない男女関係は当時の社会では異常と見なされており、そのため2人は実際の結婚を急いだ。ロシアに住んでいた夫のニコラウスは最初は離婚を拒んだものの、経済的に苦しくなると、財産分与を当て込んで離婚に乗り気になった。カロリーネとニコラウスは1855年、プロテスタントおよび正教会の教会法に則って、至極円満に離婚した。ニコラウスは2年後の1857年に再婚している。 カロリーネとニコラウスの間の一人娘であったマリー(1837年 - 1920年)は、生まれてからずっと母親の手許におり、母に連れられてリストと一緒に暮らしていた。マリーは1859年にホーエンローエ=シリングスフュルスト家の侯子コンスタンティンと結婚した。 双方とも信心深いカトリック信徒だったカロリーネとリストは、結婚のための全ての障害を清算すべく、最後にカロリーネの結婚について教皇庁から婚姻の無効を宣言してもらうことにした。カロリーネは1860年5月にローマに行き、翌1861年9月24日に婚姻無効を成立させた。カロリーネはすぐにローマ市内のサント・カルロ・アル・コルソ教会で結婚の準備を始め、リストの50歳の誕生日である1861年10月22日に婚礼を挙げようとした。リストも1861年秋にはヴァイマルからローマへやってきていた。ところが最後の最後になって、リストと縁続きになるのを嫌ったザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵家がこの結婚に異議を申し立てたため、教皇ピウス9世が婚姻無効の差し戻しを言い渡し、こうして結婚話は水泡に帰した。ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵家は、「移民」の「外国人」を結局認めなかったのである。 結婚計画の挫折により、2人の仲は急速に冷却していった。カロリーネの心は神秘主義へと傾倒していき、一方で高齢にさしかかったリストの方も1865年、下級聖職者として叙階を受けた。下級聖職者の叙階は純潔の誓いを必要としなかったが、リストとカロリーネは2度と同衾することはなかった。カロリーネはローマのバブイーノ通りにある邸宅で、彼女の死後に発表されることになる著作を執筆しつつ、神学的な研究や宗教的な鍛錬に余生を捧げた。 リストとは1886年に死別するまで手紙でのやりとりがあった。リストの死の翌年の1887年にローマで死去し、同市内のカンポ・サント・テウトニコ(ドイツ人墓地)に葬られた。
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結婚問題
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1947年6月頃、カーマはロイズの行員だったイギリス人女性ルース・ウィリアムズと出会う。1年後の1948年6月に結婚を申し込み、9月29日2人は結婚したが、この結婚はアパルトヘイトを行っている南の隣国・南アフリカ連邦を強く刺激した。ツェケディ・カーマを初めングワト族の長老たちもこの結婚には反対し、更にカーマが事前に相談もなく決めたことに難色を示した。ングワト族の慣習では、王の結婚相手は一族の中から選ばれ、王の妻として、王の後継者の母として、また一族の母としてふさわしい人物かどうか長老たちの許可が必要であった。カーマ夫妻は結婚の同意を得るためベチュアナランドに渡り、セロウェでのングワト族の伝統的な会合・民会であるコトラ(kgotla)に出席、3500人から1万人の出席者を集め、1週間にわたって開催された。コトラは既に2回開かれており、結婚か王位かの二者択一を迫る姿勢を示していたが、結論はカーマのスピーチを受けて勝利に終わり、ツェケディ・カーマはングワト領を離れ、カーマは学業を完了させるためロンドンへと戻った。 しかし、南アフリカ連邦はこの結婚に反対し続け、ベチュアナランドの宗主国・イギリスにカーマの王位を放棄させるよう圧力をかけた。当時イギリスは第二次世界大戦後の窮乏期で、南アフリカの資源を必要としていたため、イギリス議会はカーマに王位の放棄を求め、それが認められるまでカーマの帰国を認めなかった。これに伴い、ングワトのイギリスへの態度が硬化し始めた。なお、この頃長女のジャックリーン、そして後に4代目大統領となる長男のイアン・カーマも生まれている。
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