結婚前後のブーム期
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兄の皇太子明仁親王と正田美智子の婚礼を1ヶ月後に控えた、1959年(昭和34年)3月19日、毎日新聞のスクープによって島津久永との婚約が明らかとなった。清宮は「見合いで『平民』と結婚」であるとし、正田美智子が「恋愛結婚で『皇族』と結婚」したことと比較して報じられ、女性週刊誌の皇室報道が華やぎを増した。新聞のスクープを、週刊誌が詳報し、女性週刊誌が女性目線で話題を維持する、という戦後皇室報道の流れが完成された。こうして同年の間、美智子妃と清宮は、ライフスタイルやファッション等、あらゆる面で注目を受けた。清宮は結婚によって皇室を離れて民間人になった身にもかかわらず、実質的には「皇族女性」として世間の憧れの的となった。 結婚会見での明るい様子が新しい時代を感じさせるもので、今なお名会見と言われる。また、この直前の、成年皇族として初めての誕生日会見の際、「どのような男性が理想ですか」という内容の質問に対しての「私の選んだ人を見て下さって…」は当時の流行語となり、前年の皇太子夫妻の結婚と、清宮の言葉をきっかけに、恋愛結婚が増えるようになった。皇太子夫妻や清宮は、「恋愛結婚」「男女平等」「自由」の象徴として、若者世代から人気が高かった。加えて、夫となった久永も、人並みの苦労を経た堅実なサラリーマンとして、好意的に受け止められていた。そのため、夫妻は理想の夫婦像として取り上げられており、結婚後は世田谷区の新居に野次馬が詰めかけるなどブームを作った。また、貴子はペレス・プラード楽団のファンであったことが知られ、同楽団はご成婚の折に「プリンセス・スガ」という曲を作っている。 特に新婚旅行では、墓参を兼ねて佐土原藩ゆかりの宮崎県をマスコミ同伴で訪問したことは、その後の一大観光ブームの形成に大きく影響している。夫妻は5月1日に、豪華客船「くれない丸」で神戸を発ち、5月3日に宮崎入り。客船上では神津善行と中村メイコ夫妻とともにテレビに出演し、宮崎県青島や鹿児島県霧島高原での仲睦まじい様子も、詳細に報じられた。また、貴子のファッションにも注目が集まった。 久永との間には、1962年(昭和37年)に禎久(後、カメラマン)を儲けている。 1963年(昭和38年)に週刊誌『女性自身』が実施した、「ベストドレッサーはだれか」というアンケート調査では、1位の淡路恵子に次ぐ2位であり、3位であった皇太子妃美智子を上回る評価と人気があった。
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