追放から降伏まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/23 01:28 UTC 版)
「アブド・アルカーディル」の記事における「追放から降伏まで」の解説
1837年、フランスは再び東部への遠征を行うためにアルカーディルの勢力圏である西部との和平が必要となり、ビュジョー将軍を交渉の使者としてアルカーディルへの元へ派遣する。フランスはアルカーディルと和平を成立させるために1834年の条約よりもさらにアルカーディルへ譲歩し、加えて3000丁の銃火器や火薬の提供と、アルジェリア西部におけるアルカーディルの主権を認めた(タフネ条約)。だがこのタフネ条約は履行されず、またアルカーディルも軍を立て直す時間として活用しただけだった。1838年、アルカーディルは軍隊の再建に取り掛かり、5,000の歩兵と1,000の騎兵、更に外人部隊から脱走したハンガリー人を指揮官とし、同じく脱走兵を中核とする150名の砲兵隊が組織された。各地でフランス軍を翻弄したが、ビュジョー将軍がアルジェリア総督に就任するとフランス軍は大幅に増強され、1840年の時点で6万を動員した。この大兵力にアルカーディルは圧倒されたが、なおもビュジョーの軍は1844年には9万、1847年には10万7000を数えるまでになり、戦力差は拡大した。 その徹底した攻勢によってアルカーディルはアルジェリア南部の高原地域に追い込まれ、遂に1842年モロッコに駆逐された。しかし彼はあきらめず、翌1843年に戻り11月にはいくつかの部族を集め蜂起したが、またもや敗北した。モロッコに逃れた彼は、反仏的な現地のスルタンを利用し、軍隊の再建に着手し、続く3年間は手薄なフランス軍陳地を散発的に襲撃し、脅威を与え続けつつ力を蓄えていった。1847年12月、モロッコとの国境地帯にて外人部隊第1連隊と交戦、アルカーディルの軍隊は壊滅的な損害を受けた。長年の闘争につかれていた彼に、追い討ちをかける様に各部族の離反が続出。モロッコにて再起を図ろうとするも、現地ムーア人同士の内紛が致命的なものとなり、彼は降伏を決意した。一族郎党を長年の宿敵の外人部隊に虐殺されることを恐れた彼は、アルジェリア南部辺境地帯からサハラ砂漠に入り、そこに駐屯するフランス正規軍に投降し、16年に渡る闘争に幕を閉じた。 当初、外人部隊は彼を憎悪の対象とみていたが、飽くなきその闘争心からやがて敬意と畏怖を持たれるようになっていた 。またジハードを宣言し、不屈の闘争を続けながらもアルカーディル本人には狂信者的な傾向はなく、闘争の対象はあくまでもアルジェリア侵略に対してであった。同時代のヨーロッパ側の複数に及ぶ文献には、捕虜に対して「寛大な心配り、優しい同情("The generous concern, the tender sympathy" )」を示し、それぞれの信仰に敬意を持つよう注意していた記述が存在する。
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