追放と亡命生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/29 14:56 UTC 版)
「ドミトリー・パヴロヴィチ」の記事における「追放と亡命生活」の解説
ドミトリー(1916年) ドミトリーとアナスタシア ラスプーチンの暗殺が発覚した後、ドミトリーは激怒したアレクサンドラ皇后によってペルシャ戦線に派遣という名目でロシアから追放された。しかし、結果的にロシアから離れたことにより、ドミトリーは二月革命、十月革命の混乱と、ボリシェヴィキによる皇族虐殺の被害から逃れた。ドミトリーはペルシャ方面司令官ニコライ・バラトフ(英語版)の勧めに従いテヘランに向かい、そこでイギリス外交官のチャールズ・マーリング(英語版)と接触した。マーリングはドミトリーを次期皇帝候補と見做して、英国外務省に亡命を受け入れるように説得した。ドミトリーは数度に渡り拒否された後、1918年に亡命を認められた。ドミトリーはマーリングとルチア夫人との交流を通して、彼に理想の父親像を見出していった。 イギリスに亡命したドミトリーはロンドンに居住した。同時期にユスポフと再会を果たすが、その後、帝政復古をめぐり2人の間には懸隔が生じた。ユスポフの回顧録によれば、ユスポフがロマノフ朝の復辟に熱心であったのに対し、ドミトリーは帝政の復活について全く実現性がないと見なしていたという。1920年にパリに移り住み、同じようにフランスに亡命していた貴族たち同様に生活費を得るため仕事を探し、シャンパンのセールスマンの職を得た。姉マリアは他の貴族令嬢と同様にファッション業界で仕事を見付け、シャネルからの仕事を引き受けた。 1920年代後半になると、ドミトリーは民族主義団体ムラドロッシ(英語版)と関わりを持つようになった。ドミトリーはロシア帝室家長キリル大公の顔を立てるためムラドロッシの活動に参加していたが、団体に加入することはなかった。1935年にはフランス全土でムラドロッシのために演説をしたが、やがてムラドロッシが君主制とソビエト体制の共存を掲げるようになると完全に関係を断ち切った。また、ドミトリーはアドルフ・ヒトラーとナチスも嫌悪していた。
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