追放の解除
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 16:08 UTC 版)
「ジョン・ウィールライト」の記事における「追放の解除」の解説
ウィールライトは、それほどの困難さもなしにマサチューセッツとの和解が出来るとおそらく考えていた。まだエクセターに居た1642年9月、ウィールライトのために和解提案書が作成され、それに対してマサチューセッツ湾植民地は、ボストンに安全に戻り裁判所に請願を行えるようになると回答していた。この点に関してウィールライトが行動していない中で、マサチューセッツは壁の修復に興味があり、提案書も無いままに1643年5月10日に開会される植民地議会にウィールライトを再度招待した。このことで、ウィールライトはボストンの牧師達と対話することが促され、牧師達は彼の態度に大層喜んだので、議会に対して出す文書を如何に形造るか指導することまでしようとした。ウィールライトは9月10日にその文書を書き、10月4日にボストンに届けられた。議会は追放令を取り消す方向に傾いており、ウィールライトには再度議会で安全に弁解を行う機会を提案された。ジョン・ウィンスロップはウィールライトに自ら手紙を送り、ウィールライトもそれに返信した。最初の手紙ではあまりに従属的態度に見えたかもしれないウィールライトは、その手紙では慈悲ではなく公正に無罪の主張を委ねることにしていた。進んでその原理を捨てる考えはなかったが、「誤りについてはきっぱりと譲歩し、和解と和平をもたらし、その神聖な使命に従って」いた。ウィンスロップはウィールライトの2通目の手紙を受け取ると、ウィールライト自ら議会に出てくることを勧めたが、ウィールライトは進んで行きたいとは思わなかった。1644年5月29日、ウィールライトの出席が無いままに議会はこの問題を審議し、次の宣言を行った。 ウィールライト氏はその追放を解かれ、この国の一員として受け入れられる。 — Massachusetts General Court, 29 May 1644
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