ビスマルク追撃戦とは? わかりやすく解説

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ビスマルク追撃戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 01:04 UTC 版)

ビスマルク (戦艦)」の記事における「ビスマルク追撃戦」の解説

フッド沈没一報イギリス海軍ビスマルク対す復讐心を燃やし動かせる大型艦のほぼすべてを注ぎ込んで迎撃計画H部隊巡洋戦艦レナウン空母アーク・ロイヤル呼び寄せる一方で先に撤退したプリンス・オブ・ウェールズ重巡洋艦ノーフォークサフォークと組ませて触接維持させた。 一方ビスマルクは、僚艦プリンツ・オイゲン別れ別のルートフランスに向かうこととなった5月24日22:00 本国艦隊所属空母ヴィクトリアスから攻撃隊(ソードフィッシュ雷撃機9機)が発進触接続けていた巡洋艦ノーフォーク誘導及び機上捜索レーダーにより、2時間後にビスマルク捉え攻撃開始。この攻撃ビスマルク魚雷1本を命中させる損害軽微であった。 この時、ヴィクトリアス攻撃隊の兵士たち昼間の着艦訓練すらまともにできていなかったにかかわらず、1機も撃墜されことなく無事に帰還した上に、目も開けられないほどの豪雨の中、着艦指示器故障するという最悪条件で、全機夜間着艦成功するという逸話残した5月25日03:00南下していたビスマルクは、Uボート警戒して蛇行していた英艦隊左舷移動したときを狙って右舷に180度の大回頭、さらに素早く南東変針して敵捜索レーダー探知圏を脱し触接振り切ることに成功した。しかし、リュッチェンス提督レーダーから逃れたことを知らず先の海戦戦闘詳報ドイツ海軍本部発信したため、再び大まかな位置捕捉された。 5月26日10:30 ビスマルク捜索中イギリス海軍カタリナ飛行艇が、フランス西方海上ビスマルク発見。このとき、英艦隊主力部隊は「ビスマルク」の北方240km余り地点にあったことから、フランスドイツ制空権内までにイギリス艦隊追いつくことは不可能と判断したため、イギリス海軍航空兵力による足止め画策した。

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ビスマルク追撃戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:20 UTC 版)

ロドニー (戦艦)」の記事における「ビスマルク追撃戦」の解説

詳細は「ライン演習作戦」および「ビスマルク (戦艦) #ビスマルク追撃戦」を参照 1941年昭和16年5月ハミルトン卿ロドニー艦長)の指揮下、ロドニー駆逐艦複数隻はカナダへ向かう客船兵員輸送艦ブリタニック (RMS Britannic) の護衛命じられるロドニーは、ボストン改修を受ける予定だった。機関故障により片舷一軸推進となっていたロドニーは、早急な修理が必要であった。さらに500名ほどの兵士と、アメリカ海軍将校2名も乗せていた。任務途中5月24日ロドニードイツ戦艦ビスマルク追撃戦への参加命じられるリュッチェンス提督指揮するビスマルクデンマーク海峡海戦巡洋戦艦フッド (HMS Hood) を撃沈してランスロット・ホランド(英語版中将葬り戦艦プリンス・オブ・ウェールズ (HMS Prince of Wales) を撃破し後退させた。ブリタニック護衛駆逐艦エスキモ-(英語版)を分派しロドニー駆逐艦3隻(ソマリタータ―、マショーナ)を引き連れてビスマルク迎撃むかったロドニーは「ビスマルクフランス向かっている」という想定で独自行動をとった。 ビスマルク追撃戦の最中イギリス海軍軍令部ロドニー対し本国艦隊司令長官ジョン・トーヴィー大将率い本隊合流するよう命じた5月26日ロドニー本国艦隊旗艦戦艦キング・ジョージ5世 (HMS King George V) および護衛部隊と合流する駆逐艦燃料不足したため、トーヴィー提督はそれらに帰還命じた。このとき、もともと低速の上機関故障抱えていたロドニーは、キング・ジョージ5世発揮する22ノットについてゆけなかった。ビスマルクイギリス艦隊追跡振り切りかけていたが、H部隊空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) から発進したソードフイッシュの雷撃で舵を破壊され進退窮まった。 5月27日朝、新鋭戦艦キング・ジョージ5世(トーヴィ―提督旗艦)、戦艦ロドニー重巡洋艦ノーフォーク (HMS Norfolk, 78V) 、重巡ドーセットシャー (HMS Dorsetshire, 40) はビスマルク遭遇するビスマルク英国艦隊との砲戦序盤においてロドニー砲撃により前部2基の主砲1弾によって沈黙、さらにノーフォーク放った1弾によって前部射撃指揮所を直撃されて射撃指揮ができなくなった砲撃指揮引き継いだ後部射撃指揮所は、目標ロドニーからキング・ジョージ世に変更したそれまでに、ビスマルク主砲第三斉射ロドニーを夾叉し、断片右舷高角砲射撃方位盤室に被害与えた。またロドニー自身主砲発射衝撃各部損傷生じ甲板では漏水始まって防水処置を行わねばならなくなった。しかしトーヴィー戦隊決定的な被害を受けることなく、各艦の砲撃ビスマルク装備破壊して抵抗手段奪っていった。火達磨ビスマルク直撃弾は続き、1番砲塔が完全に破壊されてその破片2番砲塔破壊ロドニー16インチ砲弾2番砲塔ブルーノ)に再度命中し砲塔後部吹き飛ばした復讐の念にかられた英国艦隊この後砲撃魚雷攻撃続行し最後ドーセットシャーによる雷撃によってビスマルク撃沈したその後ロドニー燃料切れにより戦場離脱ノーフォークなどと共にクライド到着したビスマルクとの交戦において、ロドニービスマルク艦首ジグザグに横切りながら魚雷攻撃行い艦首水中発射管から24.5インチ魚雷合計8本発射してビスマルク左舷中央部に1本の命中観測した。この雷撃致命傷にはならなかったものの、作家のルドヴィック・ケネディ(英語版)によると、「もし本当ならば史上唯一戦艦が他の艦を雷撃した例である」という。

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ビスマルク追撃戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 13:49 UTC 版)

ドーセットシャー (重巡洋艦)」の記事における「ビスマルク追撃戦」の解説

1941年昭和16年5月ドイツ海軍ライン演習作戦発動しリュッチェンス提督率い戦艦ビスマルク (Bismarck) と重巡プリンツ・オイゲン (Prinz Eugen) が大西洋進出した5月24日リュッチェンス部隊デンマーク海峡海戦勝利を収めたが、ビスマルク小破して燃料不足となり、作戦中止してフランス西海岸基地にむかうことにした。イギリス海軍フッド (HMS Hood) の仇をとるため、全力を挙げる本国艦隊H部隊の他に、輸送船団護衛中艦艇ビスマルク追撃命じられた(Last battle of the battleship Bismarck)。フッド沈没したとき、ドーセットシャーシエラレオネからの輸送船団SL74を護衛して大西洋北上中だった。 5月26日午前11時ころ、PBYカタリナ飛行艇フランスにむけて東進するビスマルク発見し各部隊通報した本艦艦長ベンジャミン・マーティン大佐位置計算しビスマルクドーセットシャー北方360浬にいること、ドーセットシャー仇敵たるドイツ巨大戦艦迎撃できること気付いたマーティン艦長海軍本部許可得ず船団護衛任務特設巡洋艦まかせて東進開始した5月27日午前8時47-50分、本国艦隊司令長官トーヴィー大将直率の戦艦キング・ジョージ5世 (HMS King George V) 、戦艦ロドニー (HMS Rodney, 29) 、重巡ノーフォーク (HMS Norfolk, 78) が砲撃開始ビスマルク応戦したドーセットシャー砲撃戦がはじまってから約30分以上が経過してビスマルク沈黙したころ戦闘加入し午前9時40分から砲撃開始したドーセットシャー突如戦場出現したため、トーヴィ戦隊本艦を「掩護かけつけた重巡プリンツ・オイゲン」と錯覚したという。本海戦ドーセットシャーは20.3砲弾254発を発射したビスマルク抵抗の手段を失って航行不能になったとき、サマヴィル提督率いH部隊の3隻が出現しサマヴィル提督は自らの手でとどめをさして良いかをトーヴィー長官問い合わせた。だがトーヴィー長官戦闘中止し魚雷有する艦はビスマルク接近し、これを攻撃せよ」と命じた。この時点戦場居合わせた駆逐艦燃料不足離脱するか、前夜ビスマルクへの夜間雷撃魚雷使い果たしており、魚雷持っていたのはドーセットシャーけだった午前10時20分、ドーセットシャービスマルク右舷魚雷2本を発射し左舷側にまわると、午前10時36分に魚雷1本を発射した午前10時39分、ビスマルク左舷転覆して沈没したリュッチェンス提督リンデマン艦長ビスマルク運命を共にしたが、まだかなりの乗組員海面浮いていた。ビスマルクにとどめの魚雷撃ちこんだドーセットシャー停船し泳いできた生存者救助開始した。約1時間ドーセットシャー85名、駆逐艦マオリ (HMS Maori) が24名を救助した。なおも静止救助中、Uボート存在予測されたため、生存者数百名を水面残して沈没現場離脱したその後ドーセットシャー修理のためイングランド北東部ニューカッスル移動する航海中にビスマルク生存者1名が死亡し水葬付された。5月30日ニューカッスル入港してビスマルク生存者陸軍引き渡された。ドーセットシャー乗組員ビスマルク生存者厚遇し好意をもって接した本艦水兵達は厚遇理由について「今日はあんた方だが、明日は我が身だから」と語ったという。ドーセットシャーの「明日」は、さほど間をおかずにやってきた。 1941年昭和16年8月、オーガスタス・エイガー大佐が新艦長となる。11月22日、英重巡洋艦デヴォンシャ― (HMS Devonshire, 39) が、U126(英語版ドイツ語版)に補給中だったドイツ仮装巡洋艦アトランティス (Atlantis) を撃沈するアトランティス生存者Uボート支援によりドイツ補給パイソン (Python) に収容された。12月1日ドーセットシャーセントヘレナ島南西720浬でドイツ潜水艦2隻(U68、UA)に補給中のパイソン発見同船撃沈したUボート襲撃警戒して生存者救助はおこなっていない

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