ビスマルク追撃戦
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「ビスマルク (戦艦)」の記事における「ビスマルク追撃戦」の解説
フッド沈没の一報にイギリス海軍はビスマルクに対する復讐心を燃やし、動かせる大型艦のほぼすべてを注ぎ込んでの迎撃を計画、H部隊の巡洋戦艦レナウンと空母アーク・ロイヤルを呼び寄せる一方で、先に撤退したプリンス・オブ・ウェールズを重巡洋艦ノーフォーク、サフォークと組ませて触接を維持させた。 一方、ビスマルクは、僚艦プリンツ・オイゲンと別れ、別のルートでフランスに向かうこととなった。 5月24日22:00 本国艦隊所属の空母ヴィクトリアスから攻撃隊(ソードフィッシュ雷撃機9機)が発進。触接を続けていた巡洋艦ノーフォークの誘導及び機上捜索レーダーにより、2時間後にビスマルクを捉え、攻撃を開始。この攻撃でビスマルクに魚雷1本を命中させるも損害は軽微であった。 この時、ヴィクトリアス攻撃隊の兵士たちは昼間の着艦訓練すらまともにできていなかったにもかかわらず、1機も撃墜されることなく無事に帰還した上に、目も開けられないほどの豪雨の中、着艦指示器が故障するという最悪の条件で、全機が夜間着艦に成功するという逸話を残した。 5月25日03:00頃 南下していたビスマルクは、Uボートを警戒して蛇行していた英艦隊が左舷に移動したときを狙って右舷に180度の大回頭、さらに素早く南東へ変針して敵捜索レーダーの探知圏を脱し、触接を振り切ることに成功した。しかし、リュッチェンス提督はレーダーから逃れたことを知らず、先の海戦の戦闘詳報をドイツ海軍本部に発信したため、再び大まかな位置を捕捉された。 5月26日10:30 ビスマルクを捜索中のイギリス海軍のカタリナ飛行艇が、フランス西方の海上でビスマルクを発見。このとき、英艦隊の主力部隊は「ビスマルク」の北方240km余りの地点にあったことから、フランスのドイツ制空権内までにイギリス艦隊が追いつくことは不可能と判断したため、イギリス海軍は航空兵力による足止めを画策した。
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ビスマルク追撃戦
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「ロドニー (戦艦)」の記事における「ビスマルク追撃戦」の解説
詳細は「ライン演習作戦」および「ビスマルク (戦艦) #ビスマルク追撃戦」を参照 1941年(昭和16年)5月、ハミルトン卿(ロドニー艦長)の指揮下、ロドニーと駆逐艦複数隻はカナダへ向かう客船(兵員輸送艦)ブリタニック (RMS Britannic) の護衛を命じられる。ロドニーは、ボストンで改修を受ける予定だった。機関故障により片舷一軸推進となっていたロドニーは、早急な修理が必要であった。さらに500名ほどの兵士と、アメリカ海軍の将校2名も乗せていた。任務途中の5月24日、ロドニーはドイツ戦艦ビスマルク追撃戦への参加を命じられる。リュッチェンス提督が指揮するビスマルクはデンマーク海峡海戦で巡洋戦艦フッド (HMS Hood) を撃沈してランスロット・ホランド(英語版)中将を葬り、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ (HMS Prince of Wales) を撃破して後退させた。ブリタニックの護衛に駆逐艦エスキモ-(英語版)を分派し、ロドニーは駆逐艦3隻(ソマリ、タータ―、マショーナ)を引き連れてビスマルク迎撃にむかった。ロドニーは「ビスマルクがフランスに向かっている」という想定で独自行動をとった。 ビスマルク追撃戦の最中、イギリス海軍軍令部はロドニーに対し、本国艦隊司令長官ジョン・トーヴィー大将が率いる本隊に合流するよう命じた。5月26日、ロドニーは本国艦隊旗艦の戦艦キング・ジョージ5世 (HMS King George V) および護衛部隊と合流する。駆逐艦は燃料が不足したため、トーヴィー提督はそれらに帰還を命じた。このとき、もともと低速の上に機関故障を抱えていたロドニーは、キング・ジョージ5世が発揮する22ノットについてゆけなかった。ビスマルクはイギリス艦隊の追跡を振り切りかけていたが、H部隊の空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) から発進したソードフイッシュの雷撃で舵を破壊され、進退窮まった。 5月27日朝、新鋭戦艦キング・ジョージ5世(トーヴィ―提督旗艦)、戦艦ロドニー、重巡洋艦ノーフォーク (HMS Norfolk, 78V) 、重巡ドーセットシャー (HMS Dorsetshire, 40) はビスマルクと遭遇する。ビスマルクは英国艦隊との砲戦序盤においてロドニーの砲撃により前部2基の主砲が1弾によって沈黙、さらにノーフォークが放った1弾によって前部射撃指揮所を直撃されて射撃指揮ができなくなった。砲撃指揮を引き継いだ後部射撃指揮所は、目標をロドニーからキング・ジョージ五世に変更した。それまでに、ビスマルクの主砲第三斉射がロドニーを夾叉し、断片が右舷の高角砲射撃方位盤室に被害を与えた。またロドニー自身の主砲発射の衝撃で各部に損傷が生じ、甲板では漏水が始まって防水処置を行わねばならなくなった。しかしトーヴィー戦隊は決定的な被害を受けることなく、各艦の砲撃はビスマルクの装備を破壊して抵抗手段を奪っていった。火達磨のビスマルクに直撃弾は続き、1番砲塔が完全に破壊されてその破片が2番砲塔を破壊、ロドニーの16インチ砲弾が2番砲塔(ブルーノ)に再度命中し、砲塔後部を吹き飛ばした。復讐の念にかられた英国艦隊はこの後も砲撃と魚雷攻撃を続行し、最後はドーセットシャーによる雷撃によってビスマルクを撃沈した。その後ロドニーは燃料切れにより戦場を離脱、ノーフォークなどと共にクライドに到着した。 ビスマルクとの交戦において、ロドニーはビスマルクの艦首をジグザグに横切りながら魚雷攻撃も行い、艦首水中発射管から24.5インチ魚雷を合計8本発射してビスマルクの左舷中央部に1本の命中を観測した。この雷撃は致命傷にはならなかったものの、作家のルドヴィック・ケネディ(英語版)によると、「もし本当ならば、史上唯一戦艦が他の艦を雷撃した例である」という。
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ビスマルク追撃戦
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「ドーセットシャー (重巡洋艦)」の記事における「ビスマルク追撃戦」の解説
1941年(昭和16年)5月、ドイツ海軍はライン演習作戦を発動し、リュッチェンス提督率いる戦艦ビスマルク (Bismarck) と重巡プリンツ・オイゲン (Prinz Eugen) が大西洋に進出した。5月24日、リュッチェンス部隊はデンマーク海峡海戦で勝利を収めたが、ビスマルクも小破して燃料不足となり、作戦を中止してフランス西海岸の基地にむかうことにした。イギリス海軍はフッド (HMS Hood) の仇をとるため、全力を挙げる。本国艦隊やH部隊の他に、輸送船団を護衛中の艦艇もビスマルク追撃を命じられた(Last battle of the battleship Bismarck)。フッドが沈没したとき、ドーセットシャーはシエラレオネからの輸送船団SL74を護衛して大西洋を北上中だった。 5月26日午前11時ころ、PBYカタリナ飛行艇がフランスにむけて東進するビスマルクを発見し、各部隊に通報した。本艦の艦長ベンジャミン・マーティン大佐は位置を計算し、ビスマルクがドーセットシャーの北方360浬にいること、ドーセットシャーが仇敵たるドイツ巨大戦艦を迎撃できることに気付いた。マーティン艦長は海軍本部の許可を得ず、船団の護衛任務を特設巡洋艦にまかせて東進を開始した。 5月27日午前8時47-50分、本国艦隊司令長官トーヴィー大将直率の戦艦キング・ジョージ5世 (HMS King George V) 、戦艦ロドニー (HMS Rodney, 29) 、重巡ノーフォーク (HMS Norfolk, 78) が砲撃を開始、ビスマルクも応戦した。ドーセットシャーは砲撃戦がはじまってから約30分以上が経過してビスマルクが沈黙したころ戦闘に加入し、午前9時40分から砲撃を開始した。ドーセットシャーが突如戦場に出現したため、トーヴィ戦隊は本艦を「掩護にかけつけた独重巡プリンツ・オイゲン」と錯覚したという。本海戦でドーセットシャーは20.3㎝砲弾254発を発射した。 ビスマルクが抵抗の手段を失って航行不能になったとき、サマヴィル提督が率いるH部隊の3隻が出現し、サマヴィル提督は自らの手でとどめをさして良いかをトーヴィー長官に問い合わせた。だがトーヴィー長官は戦闘を中止し「魚雷を有する艦はビスマルクに接近し、これを攻撃せよ」と命じた。この時点で戦場に居合わせた駆逐艦は燃料不足で離脱するか、前夜のビスマルクへの夜間雷撃で魚雷を使い果たしており、魚雷を持っていたのはドーセットシャーだけだった。午前10時20分、ドーセットシャーはビスマルクの右舷に魚雷2本を発射し、左舷側にまわると、午前10時36分に魚雷1本を発射した。午前10時39分、ビスマルクは左舷に転覆して沈没した。 リュッチェンス提督とリンデマン艦長はビスマルクと運命を共にしたが、まだかなりの乗組員が海面に浮いていた。ビスマルクにとどめの魚雷を撃ちこんだドーセットシャーは停船し、泳いできた生存者の救助を開始した。約1時間でドーセットシャーが85名、駆逐艦マオリ (HMS Maori) が24名を救助した。なおも静止救助中、Uボートの存在が予測されたため、生存者数百名を水面に残して沈没現場を離脱した。その後、ドーセットシャーは修理のためイングランド北東部のニューカッスルに移動する。航海中にビスマルク生存者1名が死亡し、水葬に付された。5月30日、ニューカッスルに入港してビスマルク生存者は陸軍に引き渡された。ドーセットシャー乗組員はビスマルク生存者を厚遇し、好意をもって接した。本艦の水兵達は厚遇の理由について「今日はあんた方だが、明日は我が身だから」と語ったという。ドーセットシャーの「明日」は、さほど間をおかずにやってきた。 1941年(昭和16年)8月、オーガスタス・エイガー大佐が新艦長となる。11月22日、英重巡洋艦デヴォンシャ― (HMS Devonshire, 39) が、U126(英語版、ドイツ語版)に補給中だったドイツ仮装巡洋艦アトランティス (Atlantis) を撃沈する。アトランティスの生存者はUボートの支援によりドイツ補給船パイソン (Python) に収容された。12月1日、ドーセットシャーはセントヘレナ島南西720浬でドイツ潜水艦2隻(U68、UA)に補給中のパイソンを発見、同船を撃沈した。Uボートの襲撃を警戒して、生存者の救助はおこなっていない。
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