ヨーロッパの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/10 20:16 UTC 版)
「ジェームズ・サマヴィル」の記事における「ヨーロッパの戦い」の解説
サマヴィルは、1939年の終わりに現役に復帰し、海軍本部で任務に就いているとき第二次世界大戦の開戦を迎えた。1940年には、海軍のレーダー装備の開発に関し重要な役割を果たしたほか、5月のダンケルクの戦いでは、司令官のバートラム・ラムゼー大将の補佐にあたった。 彼の次なる任務は、ジブラルタルに基地を置き、巡洋戦艦フッドを旗艦とする新編成のH部隊の指揮官となることだった。1940年6月22日にペタン元帥がドイツとの休戦協定に調印すると、イギリスの首相であるウィンストン・チャーチルはサマヴィルに北アフリカのメルス・エル・ケビールに在泊中のフランス艦隊を無力化するように命じた。もし、平和的な交渉が全て失敗に終わった場合、フランス艦隊を撃滅せよというのが命令だった。チャーチルはサマヴィルにこう書き送っている。 “君は、かつて他のどのイギリスの提督も直面しなかったような不快な任務の責任を負うことになる。しかし、われわれはこの任務の容赦なき実行について、君を完全に信頼し、また君に頼り切っているのだ。” 他のすべての方策が失敗したとしても攻撃命令は誤りであると個人的には感じていたにもかかわらず、結局サマヴィルは停泊中のフランス艦隊を攻撃した。彼の艦隊は、かつての同盟国に大きな損害を与え、特に戦艦ブルターニュが撃沈された際には多くの生命が失われた。また、他の多くのフランス主力艦艇も深刻な損害を受けた(メルセルケビール海戦)。この作戦は成功だと見なされたが、サマヴィルは妻に対し、後の私的なやりとりの中で、攻撃には手心を加えていたことを明かしている。 この後、サマヴィルはH部隊による1941年2月9日のジェノヴァ砲撃の指揮を執ったほか、1941年5月26日の戦艦ビスマルク追撃戦でも重要な役割を果たした。彼はまた、マルタ島やエジプト向けの重要な輸送船団の護衛においても活躍した。サマヴィルはH部隊を指揮した功により、1941年に大英帝国勲章のKBEを受勲している。
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