ヨーロッパの戦争とヘミングウェイとの結婚
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「マーサ・ゲルホーン」の記事における「ヨーロッパの戦争とヘミングウェイとの結婚」の解説
1936年のクリスマスに家族でフロリダ州キーウェストに旅行したとき、ゲルホーンはアーネスト・ヘミングウェイと出会った。当時ゲルホーンは『コリアーズ(英語版)』誌からスペイン内戦の取材を依頼されており、2人は一緒にスペインに行くことにした。1937年のクリスマスはバルセロナで迎えた。その後ドイツでアドルフ・ヒトラーの台頭を取材し、ミュンヘン会談の数か月前の1938年春にはチェコスロバキアに滞在していた。第二次世界大戦の勃発後、ゲルホーンはこれらの出来事を小説"A Stricken Field"(1940年)として書いた。ゲルホーンはフィンランド、香港、ビルマ、シンガポール、イギリスから戦争の様子を伝えた。ノルマンディー上陸作戦を取材するための正式な記者証が手に入らなかったため、病院船に忍び込んでトイレに隠れ、上陸時には担架を運ぶ人になりすましていた。ゲルホーンは後に「私はどこにいても戦争を追いかけていた」と語っている。ゲルホーンは、1944年6月6日の「D-デイ」にノルマンディーに上陸した唯一の女性である。1945年4月29日、アメリカ軍によって解放されたダッハウ強制収容所を最初に取材したジャーナリストの一人でもある。 ゲルホーンとヘミングウェイは、4年間の同棲を経て、1940年11月に結婚した。ヘミングウェイは、ゲルホーンが取材のために長期間家を空けていることに次第に腹を立てるようになった。1943年にゲルホーンがイタリア戦線の取材へ行くために家を出るとき、ヘミングウェイはゲルホーンに「あなたは従軍記者なのか、それとも私のベッドにいる妻なのか?」という手紙を渡した。しかし、ヘミングウェイも後にノルマンディー上陸作戦の直前に戦地に赴くことになり、ゲルホーンもまた、ヘミングウェイに妨害されながらも戦地に赴いた。危険な遠洋航海を経て、戦争で荒廃したロンドンに到着したゲルホーンは、ヘミングウェイに「もう十分だ」と告げた。ゲルホーンは、ヘミングウェイの他の妻たちと同じように、ヘミングウェイの性格に気づいていた。バーニス・カートが『ヘミングウェイの女たち』の中で次のように書いている。「ヘミングウェイは、4人の妻の誰とも長く、完全に満足のいく関係を維持することができなかった。結婚して家庭を持つことは、彼にとってロマンティックな愛の理想的な集大成のように思えたかもしれないが、遅かれ早かれ、彼は退屈で落ち着きがなく、批判的でいじめのようになった」。4年間の結婚生活の後、2人は1945年に離婚した。 2012年の映画『私が愛したヘミングウェイ』(Hemingway & Gellhorn)は、この時代のゲルホーンとヘミングウェイを題材にしている。2011年のドキュメンタリー映画"No Job for Woman: The Women Who Fought to Report WWII"では、ゲルホーンがどのように戦争報道を変えたかを紹介している。
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