ヨーロッパの抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 13:59 UTC 版)
「カリブ海の海賊 (歴史)」の記事における「ヨーロッパの抗争」の解説
カリブ海における17世紀初めの3分の1はヨーロッパにおける野蛮で破壊的な三十年戦争(1618年-1648年)の勃発で定義され、宗教改革のプロテスタントとカトリックの紛争が頂点に達し、スペイン・ハプスブルク朝とブルボン朝フランスの最終天王山となった。この戦争は大半がドイツ国内で戦われ、その人口の3分の1ないし2分の1が紛争の歪の中で失われたが、新世界にも幾らかの影響があった。カリブ海におけるスペインの覇権が急速に衰退を始め、アフリカ人奴隷に対する依存が強くなった。新世界におけるスペインの軍事力も、マドリードがその資源を旧世界のヨーロッパ・プロテスタント諸国の大半とハプスブルク朝の断末魔の戦いに移したので、勢力が減退していった。スペインがヨーロッパに資源を移す必要性があったことで、アメリカ大陸におけるスペイン帝国の凋落が加速された。スパニッシュ・メインや西インド諸島の開拓地は財政的に脆弱となり、母国がヨーロッパのできごとに消耗する度合いを強めたので、新世界に駐屯する軍事力も小さくなった。スペイン帝国の経済力は停滞したままであり、植民地のプランテーション、牧場、鉱山は西アフリカから輸入した奴隷労働者に完全に依存するようになった。スペインがカリブ海を軍事的に実質支配できなくなったので、他の西ヨーロッパ列強が入って来て独自の恒久的開拓地を造り、新世界におけるスペインの独占支配状態を終わらせた。 オランダが三十年戦争(スペイン・ハプスブルク朝に対する反乱はネーデルラントの八十年戦争と呼ばれた)の一部として独立のためにスペインに対する闘争を再開せざるを得なかった時でも、オランダは世界の商船運航と商業資本主義のリーダーとなり、オランダ会社は17世紀に西インド諸島にその関心を向けることになった。スペインとの戦争が休戦となり、成功したオランダの合資会社がスペイン帝国に対する軍事遠征を資金手当てする多くの機会が生じた。16世紀からカリブ海にあったイングランドとフランスの私掠船拠点には、オランダの軍船が新たに群がることになった。 イングランドでは、母国での経済機会の減退と、イングランド国教会設立の際にプロテスタント神学の妥協を拒否した(ピューリタンのような)急進的プロテスタントに対して植民地が寛容になったこともあり、新世界における植民事業の新しい段階が加速された。セントルシアとグレナダの植民地が設立から間もなく崩壊した後、またバージニアのジェームズタウン植民地が崩壊寸前までいった後、17世紀前半にはプリマス、ボストン、バルバドス、および西インド諸島のセントキッツとネイビス、プロビデンス島などで新しく強力な植民地が設立された。これら植民地はすべて新世界におけるイングランド文明の中心となるべく支えられた。 当時ルイ13世(在位1610年-1642年)とその有能な宰相リシュリュー枢機卿が統治したフランスでは、フランス・カトリックとプロテスタント(ユグノーと呼ばれた)との間に宗教内乱が再燃していた。1620年代を通じて、フランスのユグノーはフランスを逃げ出し、イングランドのプロテスタントと同様に新世界で植民地を設立した。1636年、スペインを支配するハプスブルク朝とフランスの東国境を接する神聖ローマ帝国の力を削ぐためにフランスはドイツでの戦乱にプロテスタント側で参戦した。
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