西ヨーロッパ列強
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:01 UTC 版)
第一次世界大戦終結はヨーロッパ勢力による植民地経営の頂点の時期であり、また植民地に終止符を打つ流れが盛んになった時期でもあった。極度の物資の欠乏が世界中の経済状況を変化させ(特にインフレーションの多発)、「戦争帝国主義」による社会的圧迫とともに、貧農層 (peasant) の不安と中流階級の発生を促した。 経済成長により新しく意見を述べ始める層が台頭したが、これらの人々は人種問題への意識から、旧来の植民地支配者である中流層とは一線を画し、独自の政治団体の形成を指向した。またナショナリズムの勃興により、帝国主義イデオロギーは足下から崩壊し始めた。 もちろん、これ以外に、農業技術の発展や災害(フランス領インドシナの場合)、宗教の発展や変化(ミャンマーにおける仏教、オランダ領東インドにおけるイスラム教、ニヤサランドにおけるジョン・チレンベ (John Chilembwe) 主導の抵抗など)、また1930年代の世界恐慌の影響などの要因も見逃せない。 世界恐慌は、産業化社会への影響について論が集中しがちであるが、地方の植民地にも多大な被害を与えた。農業生産物の価格は、工業製品より遥かに大きく、また早く下落し、1925年頃より大戦の勃発まで、植民地は低迷した。宗主国である列強は国内問題に追われ、国際貿易への影響を無視した、保護貿易主義や関税政策が取られた。ほとんど全てが現金作物 (Cash crop) の産地であった植民地は、どこも輸出収入の大半を失い、宗主国経済の「開かれた」付属地域から、「閉じられた」システムの一部へと変質せざるをえなかった。一部の地域(イギリス領マラヤ (British Malaya) など)は、自給自足農業 (Subsistence agriculture) へ回帰したが、他の地域(インド、西アフリカなど)では経営の多角化が行われ、一部では工業化もはじまった。しかし、こういった経済形態は発展しようとすれば宗主国側の拘束によって妨害されてしまうものであった。またヨーロッパ人の所有・経営するプランテーションは、現地民資本家の経営するものよりも長期的なデフレーションに弱く、次第に「白人」農場経営主の支配力は弱まり、1930年代のヨーロッパの政府や投資家は、先住民エリートを支配者側に組み込まざるを得なくなっていった。 植民地改革の動きも植民地の終焉に拍車をかけた。特に「不干渉」を指向する共同統治制度から、経済変革を促進するための「分割的」な直接運営へ移行しようとする動きが大きな影響を与えた。本格的な官僚制政府の設立は、現地民ブルジョワジーの形成を促した。この現象は、イギリス帝国に特に顕著に見られたが、それというのも、イギリス帝国は政治的ナショナリズムの制圧にあまり成功していなかった(他国より厳しく行おうとしていた)ことによるのであろう。予算および人材の実際的問題のために、イギリスは民族主義者であるエリートたちと取引をおこなうことになったが、白人入植者が中心である自治領 (Dominion) についてはうまく扱うことができたものの、エジプトへの直接支配権を削減することでようやく戦略的資源を確保し、インドでは数多くの改革を行い、1935年に新インド統治法 (Government of India Act 1935) 成立に至ることとなる。 戦間期のアフリカはアジアとは全く違った道をたどった。熱帯アフリカは19世紀末までは、完全な植民地制度の中に組み込まれることはほとんどなかった。数少ない例外は南アフリカ連邦(南アフリカ連邦では、1924年以降、人種隔離政策(アパルトヘイト)が取られ、反植民地勢力の台頭を促進させることとなった)とエチオピア帝国 (Ethiopian Empire) であった。宗主国の支配政策は極端から極端へと揺れ動き、経済発展は阻害され、1939年以前には広範な民衆の支持を得た現地民の国家主義者集団は存在しなかった。
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