西ヨーロッパ世界へのアストロラーベの普及
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「アストロラーベ」の記事における「西ヨーロッパ世界へのアストロラーベの普及」の解説
アストロラーベの西ヨーロッパ世界への伝播は、11世紀、後ウマイヤ朝などのイスラーム政権治下のスペインや、ノルマン王朝やホーエンシュタウフェン朝時代のシチリア王国を経由してイスラーム教徒やユダヤ教徒、キリスト教徒の知識人たちがアラビア語文献のラテン語、ヘブライ語などへの翻訳活動が活発化していた時期である。西洋のキリスト教圏にアラビア語文献に基づいた東方の天文学を導入した人物として、シルウェステル2世やヘルマヌス・コントラクトゥス(Hermannus Contractus )らが知られる。数学的背景はバッターニーの論文 Kitāb al-Zīj(920年頃)により確立され、プラトー(Plato Tiburtinus )の手でラテン語に翻訳された(De Motu Stellarum)。 英語版としては、ジェフリー・チョーサーが『アストロラーベに関する論文』を彼の息子のため、主にアッバース朝初期にカリフ・マンスールの宮廷で活躍したユダヤ系の占星術師マーシャーアッラー(メッシャーラー)(Mashallah)に基づいて編纂した。またマーシャーアッラーの著書はプルッセ(Pelerin de Prusse )らによってフランス語にも翻訳された。アストロラーベに関する最初の書籍はプラカティッツ(Cristannus de Prachaticz )による『アストロラーベの構造と使用法』である。これもマーシャーアッラーを基にしたものであったが、比較的独自性が高い。 ヨーロッパにおける最初の金属製アストロラーベは15世紀にリスボンのアブラハム・ザクート(Abraham Zacuto)によって作られた。金属製アストロラーベは木製のものに比べ、より高い正確さを持つ。15世紀には、フランスの測定機器技師ジャン・フソリス(Jean Fusoris 、1365頃-1436年)が、パリの彼の店で日時計や他の科学機械などと共にアストロラーベを販売し始めた。 16世紀にヨハネス・シュテッフラー(Johannes Stöffler )がアストロラーベの製作法と使用法の解説書である Elucidatio fabricae ususque astrolabii を出版した。 1990年代後半、スイスの時計職人、ルートヴィヒ・エクスリン(Ludwig Oechslin )がユリスナルダンと共同でアストロラーベ腕時計を作った。 2006年、ドーハで開かれたアジア大会では開会式でアストロラーベを模した聖火台に点火された。
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