戦艦ビスマルク追撃戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/05 18:41 UTC 版)
「ピオルン (駆逐艦)」の記事における「戦艦ビスマルク追撃戦」の解説
1941年5月22日、ピオルンはフィリップ・ヴァイアン(Philip Vian)大佐率いる第4駆逐艦戦隊(4th Destroyer Flotilla)の僚艦コサック、マオリ、シーク、ズールーと共にグラスゴーからインド洋へ向かう兵員輸送船団WS8Bを護衛していた。5月25日になり、ピオルンを含む戦隊は護衛任務から離れ、ドイツ海軍の戦艦ビスマルクの捜索に参加することになった。 ヴァイアン大佐の旗艦コサックとシーク、ズールーは戦艦キング・ジョージ五世の、ピオルンとマオリはロドニーの護衛を命じられていたが、戦艦に合流するため航行中にカナダ空軍のカタリナ飛行艇からビスマルク発見の報を受け戦隊はビスマルクに接触すべく急行した。波浪のために速力は27ノットを出すのがやっとの状況ではあったが、5月26日午後10時までには直前までビスマルクに触接を行っていた軽巡洋艦シェフィールドと会合しビスマルクの方位を知ることができた。 午後10時50分にズールーがビスマルクを発見し、ピオルンを含む戦隊の駆逐艦たちは触接を開始した。ビスマルクはピオルンとマオリに対して砲撃を開始、ピオルンも13,500ヤード(約12,344m)まで距離を詰めるとビスマルクに対して砲撃を行い、約30分にわたって砲撃戦が続いた。 ビスマルクに対して砲撃を開始する前に、ピオルンは「我はポーランド人なり」(I am a Pole)という信号を送ったとされる。また別の史料では、砲撃開始の命令は「ポーランドを讃えて三斉射」(Trzy salwy na cześć Polski)だったともいわれている。 この戦闘で双方に被弾はなかったものの、ビスマルクの第三斉射がピオルンのわずか20ヤード(約18m)に着弾したためプワウスキ艦長は戦闘を中止し、煙幕を張りながら距離を開けた。ピオルンは燃料が極度に不足していたため、搭載する魚雷を発射することなく27日午前5時には帰投を命じられた。プワウスキ艦長は海域を離れることを渋り、イギリスに引き返すまで1時間にわたって留まっていた。ピオルンを除く戦隊によって行われた魚雷攻撃は全て失敗し、最終的にビスマルクは英戦艦との砲戦の末に沈むことになった。
※この「戦艦ビスマルク追撃戦」の解説は、「ピオルン (駆逐艦)」の解説の一部です。
「戦艦ビスマルク追撃戦」を含む「ピオルン (駆逐艦)」の記事については、「ピオルン (駆逐艦)」の概要を参照ください。
- 戦艦ビスマルク追撃戦のページへのリンク