第一次近文アイヌ給与地問題発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/05 10:04 UTC 版)
「天川恵三郎」の記事における「第一次近文アイヌ給与地問題発生」の解説
旭川の近文には、アイヌへの給与地が存在した。しかし、旭川第7師団が設置され、旭川の発展に伴い、その中間に位置した給与地のアイヌ集落が問題視されるようになる。また、近文の肥沃な土地を欲する者が存在し、それが大倉喜八郎であった。1899年(明治32年)12月16日、近文のアイヌ給与地の近隣に住む小作人・三浦市太郎が、近文の首長である川村モノクテらを呼び出す。三浦が言うには、「お上は天塩の土地を、近文にある給与地とは別に、アイヌに給与する」、「東京からトノ(役人、ここでは大倉喜八郎らを指す)が来ている、なのですぐに願書に押印して提出するがよい」、そう勧められた川村らは、アイヌの各家庭を回り願書に判を押させる。しかし、近文のアイヌは願書に記載されている文章を読めなかった。この願書は実際には、近文の給与地と天塩の原野を交換するという内容の物であった。1900年(明治33年)、騙されていた事に気づいたアイヌは、自ら手助けを申し出た朝山益雄弁護士を代理とし、三浦を私印盗用・私書偽造で訴えた。3月13日、首長川村らに対し、札幌の地方検事局へ出頭せよとの通達が下る。しかし、彼らは日本語を理解できなかった。そこで、浜益でアイヌの代弁者として名が通っていた天川に協力を求める事になる。
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