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大野延太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/26 22:26 UTC 版)

大野 延太郎
おおの のぶたろう
Nobutaro OHNO
人物情報
別名 大野雲外
生誕 1863年4月14日文久3年2月27日
日本越前国坂井郡丸岡(現・福井県坂井市
死没 (1938-03-22) 1938年3月22日(74歳没)
日本
居住 日本
国籍 日本
学問
時代 江戸時代末期 - 昭和時代前期
活動地域 日本
研究分野 人類学考古学
研究機関 東京帝国大学理学部人類学教室
主な業績 画工として学術書籍や雑誌の考古資料の図版・挿絵を製作
影響を受けた人物 坪井正五郎
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大野延太郎(おおの のぶたろう、1863年4月14日文久3年2月27日〉 - 1938年昭和13年〉3月22日)、雅号大野雲外(おおの うんがい)は、明治時代から昭和時代初期に活動した日本画工人類学者考古学者東京帝国大学に所属して遺跡から出土した遺物図版製作や、人類学・考古学に関する学術書籍・雑誌の挿絵製作などをしつつ、調査・研究活動も行った。

人物

大野による函石浜遺跡京都府京丹後市久美浜町)出土の弥生土器図版。1910年(明治43年)9月20日『人類学雑誌』第27巻第9号雑報掲載。

越前国福井県坂井郡丸岡町(現・坂井市)出身。1880年(明治13年)に東京本多錦吉郎の塾に入り図画を学ぶ。

1886年(明治19年)、金港堂編集所に雇聘される。1891年(明治24年)の東京英語学校の図画教授を経て、1892年(明治25年)に東京帝国大学人類学教室の図画嘱託(画工)となる[1]

画工として土器石器などの写生に従事する内に学術研究に対する意欲にも目覚め、1902年(明治35年)に同人類学教室の助手となった。坪井正五郎らが主宰する日本人類学会の『人類学雑誌』上に土偶石器装身具等の型式分類に関する論文を発表した[2]岩版(岩盤)についての本格的な分析・研究を学史上の最初期に行い、土版と岩版は土偶の退化形態であると位置づけた[3]

著作

単著

共著

共編

著作集

脚注

  1. ^ 守屋幸一 2011, pp. 28–30.
  2. ^ 江坂輝彌 2005, p. 56.
  3. ^ 川添和暁 2010, p. 1.

参考文献




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