大野弁吉(おおのべんきち中村弁吉 1801-1870)
大野弁吉は、からくり儀右衛門こと田中久重と同時代の人で、「加賀の平賀源内」とも呼ばれた発明家。京都で羽細工師の子として生まれ、20歳のころ長崎に出て、医学、天文学などを学び、30歳のころには石川県大野村(現金沢市大野町)に住まいした。
木彫、ガラス細工、塗り物、蒔絵などのほか、各種のからくりを多く製作した。地図測量に関連することでは、「八線算数表」、「測量三角法」、「応象寛暦」などの天文・暦数学の著作を残し、地球儀や護岸工事測量用の測量機器も製作したという。さらに、化学・医学にも通じていたといい、写真技術のことでは、世界初の本格的な銀板写真機が日本に輸入された翌年(1849年)には、写真技法をマスターしていることが明らかになっている。しかも彼の撮影した写真は銀板を進化させた湿板写真で、これは写真史上における「公式な」湿板写真の発明に2年も先んじているという。自作の写真機による肖像写真などが残されている。
大野弁吉
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大野 弁吉(おおの べんきち、1801年 - 1870年)は江戸時代の日本の発明家(技術者)である。中村屋弁吉とも。一東、鶴寿軒と号す。
経歴
京都の羽根細工師の息子として生まれ、20歳の頃、長崎で蘭学を学ぶ[1]。その後、対馬経由で朝鮮に渡り[2]、帰国後は中村屋八右衛門の長女うたの婿となり、1831年(天保2年)に石川郡大野村(現金沢市大野町)に移り住んだ[1]。この頃から大野弁吉と呼ばれる[2]。生涯清貧に甘んじた生活を送り、1870年(明治3年)没[2]。享年69歳[2]。
木彫・ガラス細工・塗り物・蒔絵・からくり人形に優れた名作を多く残し[1]、エレキテル・写真機・発火器(ライター)といった品々を発明した[2]。大野の発明品は、田中儀右衛門(からくり儀右衛門)に比するとも言われ[1]、写真の分野においては先駆的な役割を果たした。銭屋五兵衛とも親交があったが[1]、どの程度の援助を受けたかは不明[2]。
脚注
- ^ a b c d e f “石川県金沢港大野からくり記念館 - 大野弁吉紹介 -”. ohno-karakuri.jp. 2021年8月6日閲覧。
- ^ a b c d e f “からくり師大野弁吉の町”. 大野日吉神社公式ホームページ. 2021年8月6日閲覧。
- ^ Tokyo Metropolitan Museum of Photography, editor. 328 Outstanding Japanese Photographers『日本写真家事典』. Kyoto: Tankōsha, 2000. ISBN 4-473-01750-8
関連書籍
- 本康宏史『からくり師大野弁吉とその時代―技術文化と地域社会』ISBN 978-4872944808
- 『江戸の未来人列伝』ISBN 978-4396314668
- 『からくり人形の文化誌』ISBN 978-4905640776
- 『図説 からくり―遊びの百科全書』ISBN 978-4309760155
- 『からくり (ものと人間の文化史) 』ASIN B000JA2X4M
- 『甦えるからくり』ISBN 978-4871882675
- 高橋克彦『偶人館の殺人』ISBN 978-4-569-76304-0
関連項目
外部リンク
固有名詞の分類
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