宮廷芸術家
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「ニコラス・ヒリアード」の記事における「宮廷芸術家」の解説
ヒリアードの徒弟期間の終了は、新しい宮廷肖像画家が「のどから手が出るほど必要」だった時期と重なった。パネル(板)に描かれた2枚のエリザベス1世の『フェニックス (Phoenix)』、『ペリカン (Pelican)』と呼ばれる肖像画はヒリアードが長期にわたって描いた作品で、1572年ごろから1576年ごろにかけて描いたと考えられている。ヒリアードはエリザベス1世の絵師(ミニチュアール作家)、金銀細工師に任命されたが、その正確な日付は伝わっていない。しかしながら現在知られている最初にエリザベス1世を描いたミニアチュールには1572年の日付が入っており、さらに1573年には王室に対する忠誠心がエリザベス1世に認められ、その役職を再任されている。1571年にはエリザベス1世の寵臣だった初代レスター伯爵ロバート・ダドリーのために「肖像画集 (a booke of portraitures)」を作成しており、ヒリアードが宮廷で認められつつあったことを示している。ヒリアードにはダドリーと彼の取り巻きの人々にちなんで名付けられた子供もいる。 イングランドにはこういった有力なパトロンが存在していたが、1576年に結婚したばかりのヒリアードはフランスに旅立つ。フランスではパリに居住していた在仏イングランド大使アミアス・ポーレット卿 (en:Amyas Paulet) 宅に長期滞在していた。「この旅行には彼自身の知識欲を満たす以外の目的はなく、いずれイングランドに帰国するときまでフランスの上流階級から滞在費を受け取っているだけである」と、ポーレットは当時のヒリアードについて書き残している。ヒリアードは当時フランス大使館勤務だったフランシス・ベーコンのミニアチュールをパリで制作している。 ヒリアードは1578年から1579年ごろまでフランスに滞在し、エリザベス1世の宮廷彫刻家でもあったフランス人彫刻家ジェルマン・ピロン (en:Germain Pilon) らフランスの芸術家たちと親交を深めた。フランスルネサンス期を代表する詩人ピエール・ド・ロンサールはヒリアードについて次のような、毀誉褒貶どちらとも取れる「賛辞」を送っている。「島国(イングランドを指す)では抜け目のない男は本当に希少な存在だが、その数少ない男たちは完璧なまでに狡猾とさえいえる」 ヒリアードはエリザベス1世の花婿候補でもあったアンジュー公爵フランソワの1577年の文書に「ニコラス・ヒリアード、イングランド人画家 (Nicholas Belliart, peintre anglois)」として名前があがっている。そこにはヒリアードがフランソワから200リーブルの報酬を受け取ったことが書かれている。1577年に描かれた当時宮廷女官だったスルディ夫人のミニアチュールがあり、他にもフランス王アンリ4世の愛妾ガブリエル・デストレ、コンデ公妃、モンゴメリー夫人を描いたミニアチュールはヒリアードの作品であると考えられている。 金銭問題はヒリアードを悩ませ続けた。当時はミニアチュール一つにつき1ポンドが平均的な価格だった(1570年代にロンドンに滞在していたオランダ人画家コルネリス・ケテル (Cornelis Ketel) の絵画の価格は、肩から上を描いた肖像画が1ポンド、全身を描いた肖像画は5ポンド)。1599年にエリザベス1世から40ポンドの歳費を受け取っており、1617年には、1584年にエリザベス1世にかつて拒否されたミニアチュールと彫刻の制作独占権を、ジェームズ1世から手にすることに成功した。しかし同年にヒリアードはラドゲイト監獄に投獄されてしまう。これは他人の保証人となり、その負債を支払うことができなかったためだった。ヒリアードの義父は、彼の金銭管理能力を信用しておらず、1591年の残した遺言には、娘へ残した積立金を金銀細工師組合が管理するよう書かれてあった。同年にヒリアードは二つ目のイングランド国璽を制作し、エリザベス1世から400ポンドという多額の報酬を受け取っているが。、定まった年俸は受け取っていなかったであろうことに留意する必要がある。フランスからの帰国後スコットランドの金鉱採掘計画に投資したが、この計画は詐欺まがいのものだったとも考えられており、ヒリアードにとってその後25年たっても苦い思い出として記憶に残ることとなった。
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