宮廷貴族の特権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:10 UTC 版)
フランス革命で倒された旧体制はアンシャン・レジームと呼ばれ、日本では絶対主義と呼ばれている。この言葉は中世の封建制度に比べると国王の権力が強まり、国王の絶対的権威は王権神授説によって理論化されていた。「朕は国家なり」という言葉がその本質を表している。フランス絶対主義はルイ13世の時代にリシュリュー宰相(枢機卿、公爵)によって確立され、ルイ16世の時代に終わった。しかし、絶対主義という言葉で呼ばれているにもかかわらず、必ずしも国王個人が絶対的な権力を持っていたわけではなかった。国王はフランスの領土の5分の1を持ち、最大の領主であったが、あくまで領主の一人にとどまり、最大の領主であったというだけであった。絶対王政の期間では国王が権力を行使できない場合も多く、国王を立てて絶対的な権力を行使したのは、リシュリューやマザランなどの一群の大領主であった。この時代に王権を動かしていた大領主の一団は宮廷貴族と呼ばれ、約4000家あった。宮廷貴族の地位は家柄で決まっていて、宮廷貴族の上層は家柄の力で高級官僚に若いころから任命された。 これらの西洋の領主・騎士階級を日本語では通常「貴族」と呼んでいるが、実態は平安時代の「貴族(公家・公卿)」よりも江戸時代の「武士(大名・旗本等)」に近いものであり、「貴族」というよりは「西洋の武士階級」とすべきものである。当時の宮廷貴族に要求される能力は、宮廷の作法、剣の操法、宮廷ダンスの技術、貴婦人の扱い方であり、学問とか、経済運営の能力は次元の低いものとみられていた。宮廷貴族の大多数は大蔵大臣の仕事に向かない者が多かったため、有力宮廷貴族がパトロンとなって能力のある者を大蔵大臣として送り込み、その代わりに自分の要望通りの政治を行わせた。これらの宮廷貴族がベルサイユに集まって、王の宮殿に出入りしていた。 宮廷貴族は収入を得るために高級官職を独占していた。当時の官職収入は桁違いに大きく、正規の俸給よりも役得や職権乱用からあがる収入の方が多かった。これらの役得は当然の権利とされていた。このため4000家の宮廷貴族はその大小の官職によって国家財政の大半を懐に入れていた。これらの官職の中には無用な官職も多く、たとえば、王の部屋に仕える小姓の官職だけに8万リーブル(約8億円)が支払われていた。その高い俸給と副収入が貴族の収入となっていた。 また、国家予算の十分の一を占める年金支払いは、退職した兵士や将校にも支払われていたが、その年金額には大きな格差があり、退職した大臣や元帥といった宮廷貴族には巨額の年金が支払われた。さらに王が個人的に使用できる秘密の予算もあり「赤帳簿」と呼ばれた。宮廷貴族は夫人を使って大臣、王妃、国王のところにいろいろな理由を付けて金を取りに行かせた。これらは宮廷貴族による国庫略奪であった。 フランス革命は国庫の破綻を引き金にして引き起こされた。国庫の赤字を作り出したものはこのような宮廷貴族の国庫略奪であった。ところが、このような不合理な支出が当時の宮廷貴族にとっては正当な権利と思われていた。その権力を守るために宮廷貴族たちは行政、軍事を含めた国家権力の上層部分を残らず押さえていた。宮廷貴族から見ると国家財政を健全化するために無駄な出費を削ろうとする行為は、宮廷貴族の誰かの収入を削ることになり、その権利を取り上げることは悪政と見えた。この場合国王個人や少数の改革派の意志は問題にならず、宮廷貴族の集団的な利益が問題となった。このように宮廷貴族は当時のフランス最強の集団であり、革命無しにはこれらの宮廷貴族の特権を奪うことはできなかった。
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