宮廷画家として
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「フランツ・ヴィンターハルター」の記事における「宮廷画家として」の解説
パリでヴィンターハルターはたちまち人気者になった。フランス国王ルイ・フィリップの宮廷画家に任命され、国王はヴィンターハルターに一族の肖像画を依頼、ヴィンターハルターは30点以上の作品を制作することになった。 この成功によりヴィンターハルターは、モデルによく似せながら実物以上に絵を引き立て、公式の装束に当世風の流行で華を添えることの巧みな王侯貴族専門の肖像画家として好評を得た。 しかし美術界でのヴィンターハルターの評判は芳しくなく、1836年のサロン・デビューを賞賛した批評家たちからも、真面目に取り上げるべき画家ではないと切り捨てられた。この評価はヴィンターハルターの経歴を通じてつきまとい、宗教画・歴史画を重んじ風俗画を軽視する傾向の中で肖像画製作のみを余儀なくされることとなる。ヴィンターハルター自身は王家からの初期の依頼を、歴史画、宗教画などの大きな主題のある絵画(subject painting)や学術的に評価される分野へ戻る前の一時的な寄り道とみていた。 しかし結局は自身の成功に引きずられ、後半生のほとんどを肖像画家として活動することになった。ヴィンターハルターにとっては、肖像画こそが成功と富を得た分野であり、王侯貴族の後援を受け国際的著名人となっていく。
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宮廷画家として
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「フアン・バウティスタ・マルティネス・デル・マーソ」の記事における「宮廷画家として」の解説
義父であり師であるベラスケスの存命中は、デル・マーソの作品は義父のスタジオで制作された。1660年にベラスケスが死去したのちの1661年4月19日、フェリペ4世により宮廷画家に任じられるとともに、息子のガスパールは元はデル・マーソの役であった王室配室役を任じられた。1665年にフェリペ4世が死去したのちも、デル・マーソの署名が残る数少ない作品の一つである『喪服姿のスペイン王妃マリアナ』に描かれた王妃マリアナの庇護のもと宮廷での地位は保たれた。この時期、マルガリータ・テレサがローマ皇帝・オーストリア大公へ嫁ぐためにスペインを離れる前に、同じく喪服を着たマルガリータ肖像画『父王の喪に服す王女』が描かれた。デル・マーソは1667年2月9日にマドリードで死去するまで、宮廷画家の地位にあり続けた。
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