宮廷歌劇場辞任へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:21 UTC 版)
「交響曲第8番 (マーラー)」の記事における「宮廷歌劇場辞任へ」の解説
1906年10月、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーがウィーン宮廷歌劇場と指揮者の契約を結ぶ。翌1907年1月、自作の交響曲第6番をウィーンで、交響曲第3番をベルリンで、交響曲第4番をフランクフルトで、交響曲第1番をリンツでそれぞれ上演したが、シーズン中に休暇をとって自作の演奏旅行をしたことで、ウィーンでのマーラー批判が一気に吹き出し、音楽界ほぼ全体が敵となった。このころには、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とマーラーの仲介役だった宮廷大元帥モンテヌーヴォ公爵との関係も冷えてしまっていた。 同年2月、アルノルト・シェーンベルクの弦楽四重奏曲第1番、室内交響曲第1番の初演を聴き、シェーンベルクの音楽を熱烈に支持する。3月18日、ロラーの舞台装置でグルックの『アウリスのイフィゲニア』の新演出を上演。これがマーラー最後の新演出となる。5月にウィーンで『サロメ』のオペラの初演を果たすが、6月5日、ベルリンでニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の支配人ハインリヒ・コンリートと会い、翌シーズンから同歌劇場の指揮者として就任することを承諾、21日に正式に契約を取り交わした。マーラーはこの時点で渡米の決意を固めたことになる。7月12日、夏の休暇先マイアーニックで長女マリア・アンナ死去。その直後にマーラー自身も心臓病の診断を受ける。
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