宮廷掌握と性急な改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/14 06:26 UTC 版)
「ヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセ」の記事における「宮廷掌握と性急な改革」の解説
当初、ストルーエンセは黒幕として背後から宮廷を操るだけであったが、次第に自分が操る傀儡に満足できなくなっていった。そこで、1770年12月には大臣たちが罷免され、ストルーエンセ1人がメートル・デ・ルケットとして事実上の摂政となった。以後、さまざまな政府機関から提出されるあらゆる報告は、ストルーエンセを通じて王に示されることになった。クリスチャン7世は自分の責務にほとんど無関心だったので、ストルーエンセは提出された報告書に好きなように裁可を加えることができた。 クリスチャン7世の名前で、ストルーエンセは数多くの改革を推し進めた。まず彼が行ったのは、全ての省庁の長官を罷免し、ノルウェー総督職を廃止することであった。このことによって、彼が核となる内閣のみが、国家運営に対して絶対的な権威を持つこととなった。 ストルーエンセは、デンマーク・ノルウェー王国を暗愚の地であると考えており、まるきり観念的な原理によって改革しようとしていた。現地の習慣や考え方を偏見と切り捨て、一顧だにしなかった。デンマーク語を全く知らなかった彼は、ドイツ語ですべての政務を推し進めた。 彼の改革の多くは、模範となる先例のあるものばかりではあり、本来は有益なものであった。例えば捨て子のための病院の設立、窃盗犯の死刑廃止や、司法における拷問の廃止、袖の下などの腐敗や追従行為の追放、有力者の家臣が収入の多い公的役職に就くことの禁止などである。 しかし、ストルーエンセの改革熱は偏執の域に達していた。古い組織であるというだけで、彼の目にはその組織は廃止すべきものに映った。そして、慎重な政治家なら何十年もかけて実行するような変革を、彼はたったの2週間で行おうとした。専制を振るった1771年3月20日から1772年1月16日の10ヶ月間に、彼は1069通もの政府令を発布したが、これは1日に3通以上という計算になる。 自身への忠誠を確実なものとするために、ストルーエンセはあらゆる政府組織の職員を無差別に、退職金も年金もなしに解雇し、自ら指名した人物を代わりに採用した。それまで務めていた経験のある役人が去り、統治すべき国についてほとんど何も知らない経験の少ない人々が代わりとなった。このような強引な改革は彼に対する反感を高めた。彼が全ての検閲を廃止すると、街中にストルーエンセを批判するパンフレットが飛び交うことになった。
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