宮廷舞踊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/18 03:05 UTC 版)
「ビザンチン帝国下のダンス」の記事における「宮廷舞踊」の解説
帝国の最盛期には、宮廷生活は「ある種のバレエ」を踊るようなもので、あらゆる種類の規定に従って、正確に儀式を行っており、これによって「帝国の力は調和と秩序の下で行使される」ことを示し、皇帝コンスタンティノス7世は「帝国は、創造主によって作られたこの世界の動静を反映する」として、宮廷の年次計画を非常に詳細に記述した「儀式書」を執筆するほどであった。 それぞれの場面に応じて、多くの階級の人々に特別の服装が定められており、皇帝や皇后両陛下の晩餐会では、様々な役人達がそれぞれの集団で儀式用の踊りを踊っていた。一つ目の集団では、青と白の儀式用の短袖と金の帯の衣装を身に付けて、足首に輪をつけて、手には phengia と呼ばれるものを持って踊っていた。2つ目の集団も同じように行うが、緑と赤の色を金色のバンドで分割した装いで踊る。これらの色は昔の戦車競走の派閥の印であったが、その4つの色は青と緑に統合されていき、公式の身分階層に組み込まれていった。 一部のダンス歴史家は、役人たちの宮廷での踊りは、抑制された「様式化された散歩」のようなものであったと想像している。しかし、1050年頃にビザンチン皇帝によってハンガリーに送られた Monomachus Crown のエナメルの銘板には、両手を頭の上において、頭と片脚を後ろに引いた女性が、礼儀正しく踊っている様が記されている。そこには、縄跳びの時の様に、彼女たちは頭の上に長い帯状の布を振っている様を見ることができる。
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