北方絵画
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ロベルト・カンピン、ヤン・ファン・エイク、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンら、初期フランドル派の画家たちの北方写実主義絵画はイタリアでも大きな賞賛を受けた。しかしこれら北方絵画とイタリア絵画との相互に対する影響は15世紀の終わりになるまでほとんどなかった。15世紀にも両地域には頻繁な文化的、芸術的交流があったにもかかわらず、1500年から1530年までのアントワープ・マニエリスム((en:Antwerp Mannerists)、年代的にはイタリアでのマニエリスムの時期と重なるが、関連性はほとんどない)の芸術家たちが、ネーデルラントで最初にイタリア・ルネサンスの影響を受けた。 ほぼ同じころドイツ人画家・版画家のアルブレヒト・デューラーがイタリアへ二度旅し、版画の分野で高く評価されている。デューラーはイタリアで見たルネサンス芸術の影響を受けて帰国した。他にイタリア人以外の重要な画家として、ドイツの画家ハンス・ホルバイン (父)、フランスの画家ジャン・フーケなど、当時北方では主流だったゴシック様式の画家たちや、ネーデルラントの画家ヒエロニムス・ボス、ネーデルラントの画家ピーテル・ブリューゲルのように、高度に独自の芸術を展開していた画家たちがイタリア・ルネサンスの影響を受けて発展させたスタイルは、次世代の画家たちにも盛んに模倣されていくことになる。16世紀の北方の絵画家たちはますますローマに注目し、実際にイタリアへ旅することによってルネサンス美術を自身らの芸術に取込むことによってロマニズム(ローマ派 (en:Romanism (painting)))として知られるようになっていった。ミケランジェロやラファエロが活躍した盛期ルネサンス期芸術と、後期ルネサンス期に流行したマニエリスム様式とは、北方の絵画家たちの作品に大きな影響を与えたのである。 ルネサンス人文主義と数多くの古代の芸術品は、北方の芸術家たちよりもイタリアの芸術家たちの方にギリシア・ローマ時代の芸術復興というテーマを多くもたらした。15世紀のドイツやネーデルラントの著名な絵画作品には古代芸術の影響は見られず、中世からの伝統的な宗教画が多い。当時の北方芸術でとくに知られるのが祭壇画で、持ち運び可能なものから非常に大きなものまで制作されている。翼を持った祭壇画は教会暦で定められた特定の日ごとに開閉された。16世紀になると北方でもイタリアでも、神話や歴史を題材とした美術品がよく作成されるようになる。しかし北方ルネサンスの画家たちは、さらに新しい題材を求めて風景画や風俗画などにも進出していった。 北ヨーロッパに波及したイタリア・ルネサンスの芸術スタイルは、それぞれの地域性にあわせて変化し、その土地に独自に適応していった。イングランドと北部ネーデルラントでは、宗教改革の影響で宗教絵画がほぼ姿を消している。当時のテューダー朝イングランドには優れた宮廷芸術家がいたが、肖像絵画はごく一部の上流階級に広まっただけだった。フランスでは、イタリアから招かれた後期マニエリスム様式の画家ロッソ・フィオレンティーノらの影響によってフォンテーヌブロー派が成立したが、最終的には伝統的なフランス絵画へと回帰している。16世紀終わりにはハールレムに集ったカレル・ヴァン・マンデルやヘンドリック・ホルツィウスらの芸術家が、フランドル地方に北方ルネサンスに続く「北方マニエリスム」を展開していった。
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