フランスの古典的バロック建築
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「バロック建築」の記事における「フランスの古典的バロック建築」の解説
宰相リシュリュー、ジュール・マザランといった政治家によって経済的な活力を強力なものにしたパリは、すでに17世紀の初期から芸術の中心地としての地位をローマから奪いつつあった。フランスのバロック建築は、なによりもまず絶対君主制を具現するような国家建築において、その着想を得ることになった。 フランスでのバロックの傾向は、サロモン・ド・ブロスが設計した幾つかの建築に現れているが、より重要な仕事をしたのはフランソワ・マンサールである。彼はベルニーニやボッロミーニと同世代の人物だが、両者と比べると、オーダーをルネサンス建築の原理そのままに用いるなど、その作風は適度に抑制されている。彼の最も重要な建築は、1645年に起工されたパリのヴァル・ド・グラース教会堂とブロア城のオルレアン館、ラフィット館である。ヴァル・ド・グラースのバシリカとドームを組み合わせた円蓋式バシリカは、サン・ピエトロ大聖堂よりもドームの比重がより強調されたものとなっており、この特色は後期バロックの教会建築の特徴となっていく。ブロワのオルレアン館がパラッツオ・ベルベリーニから着想を得ていることは明らかである。入隅を滑らかに納めるカーブした列柱や、内部空間に楕円形を導入する方法もイタリアから着想を得ているが、これらを優雅に、かつ控えめに表現する造形は、むしろロココ的な意匠を想起させる。 より古典的なバロック建築を好んだマンサールとは反対に、ローマ・バロック特有の意匠を好んだのはルイ・ル・ヴォーである。彼は豪放な細部のデザンや凹凸を全面に押し出した形をコレージュ・デ・キャトル・ナシオンにおいて表現したが、これはマンサールの抑制されたデザインとは対照的である。彼は実用的な平面を画き、特に邸宅建築にその力量を発揮した。ヴォー・ル・ヴィコント邸館は宰相ニコラ・フーケが建設したものだが、後に若きルイ14世が彼を失脚させてまで我がものとした。実際に、これは17世紀フランスの宮殿建築の嚆矢となる建築である。左右に突出部や、中央にドームを乗せた楕円形の広間など、ローマのベルベリーニ宮に着想を得たプランを採用しているが、庭園とそれを望む広間は後にヴェルサイユ宮殿で試みられる形式の原型であり、以後の宮殿建築に大きな影響を与えた。 パリが最も偉大な芸術家としてベルニーニを呼び、ルーヴル宮殿の東ファサードの設計を依頼したのは1664年である。王室建築物総監であったジャン=バティスト・コルベールはベルニーニをパリに召還し、およそ3つのプランの変更を経て、1665年に工事を開始させた。しかし、ローマ・バロックの意匠はフランス人の好むところではなく、翌年工事は中断され、1667年にはル・ヴォー、クロード・ペローを含む建設委員会が結成され、最終案が合議された。ペローによるところが大きいとされるこのファサードは、ベルニーニ案からのモティーフをいくつか拝借してはいるが、彼のデザインとは全く印象が異なる。その雄大な造形はフランス古典主義建築の最も完成された姿とされ、その容姿はしばしばルイ14世様式と評された。 バロック芸術の源泉が完全にパリのものとなる17世紀末期には、フランスに近代的なアカデミーが創設された。そこでは絵画・彫刻・建築の教育が行われ、卒業すれば宮廷芸術家として社会的地位が約束されたが、一方で建築の形態を決定する手法はアカデミーによってコード化されることになり、国家機構の中に組み込まれた。ジュール・アルドゥアン=マンサールは、こうしたアカデミー出身の典型的な人物である。ヴェルサイユ宮殿の王室礼拝堂は、内部空間の構成を完全にゴシック建築のものとされたが、1階が臣民の席であるのに対し、2階は国王席で、国王の住居と同じレベルで直結しているなど、地位を空間の階層として明確に分離している。彼はまた、ルイ14世にふさわしい記念碑的建築物として、廃兵院にドーム・デザンヴァリットを設計した。この平面プランはブランテやミケランジェロなどが16世紀に好んだ典型的な集中式礼拝堂だが、その内部空間はドームに支配されており、垂直性をかなり強調したものとなっている。このドームは、エッフェル塔ができるまで、パリのランドマークとなった。
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