フランスの反撃
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「ウィンチェルシーの海戦」の記事における「フランスの反撃」の解説
海軍力増強と通商規制を重要政策として位置づけていたエドワード3世の下、イングランド艦隊はスロイスでフランス艦隊を壊滅させ制海権を握ってはいたが、1349年ごろからフランス海軍の動きが再び活発になる。フランス貴族のシャルル・デ・ラ・セルダ(英語版)が率いる艦隊はイングランド船を拿捕して船員を殺害したり、武器や兵士を満載した船団をスロイスに入港させようとしていた。1350年に入ると、フランスの同盟国のカスティーリャ艦隊もイングランドに占領されたカレーの襲撃を企てるなど、ドーバー海峡を巡る英仏の綱引きは慌ただしさを増していた。 カスティーリャ王国とジェノヴァ共和国はフランスの同盟国であり通商相手だったため、イングランドとは海上でしばしば衝突していて、両国の武装商船団はイングランド商船を狙って頻繁に海賊行為を行っていた。特に、フランドルで荷を積み込みバスク(フランスとスペインの国境付近)まで運んでいたカスティーリャ商船団は戦艦も伴っており、途上でイングランドの商船に出会ってはこれを襲撃し、船員を海に放り込むといったことを繰り返していた。この船団を指揮していたのも、カスティーリャ王家の血を引くシャルル・デ・ラ・セルダだった。戦いの別名であるレ・ゼスパニョール・シュール・メール(海の上のスペイン人)とはラ・セルダのことを指す。
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フランスの反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/17 02:17 UTC 版)
1660年代半ばになって、フランスが正規兵の小さな派遣部隊を送り込んだことにより、戦争の流れが変わった。この部隊は茶色の制服の「カリニャン・セリエール連隊」で、カナダの地を踏んだ最初の職業的兵士の部隊となった。同じ頃、イロコイ族と同盟していたオランダ人は南部のイギリスからの攻勢でニューネーデルラントの支配権を失っていた。 1666年1月、ヌーベルフランスの副王でトレーシー侯爵のアレクサンドル・ド・プルーヴィルに率いられたフランス軍がイロコイ族の本拠に侵攻した。侵攻そのものは失敗だったが、カナクイーズ酋長を捕虜にした。9月、フランス軍はリシュリュー川を下ってイロコイ族領土への2度目の侵略を行った。イロコイ族の部隊を見つけられなかったフランス軍はトウモロコシなどの作物や家を焼いて本陣に戻った。フランス人によるこの焦土作戦によって、多くのイロコイ族がその年の冬、飢えで死んだ。 イロコイ族は和平を求め、これが一世代続いた。その間にカリニャン・セリエール連隊は入植者として植民地に残り、植民地の人口動態を大きく変えた。この連隊の兵士はカナダに来る前にオスマン帝国と戦った熟練兵であった。態度や言葉遣いが荒く、牧師達がセントローレンス川の堤において、「静かで敬虔な社会を作ろう」という望みは消えた。イロコイ族が一時的におとなしくなっていたので、カリニャン・セリエール連隊が1667年に立ち去った後になって、植民地の監督者はやっと民兵を組織化する手段を採り始めた。牧師と一部役人を除き、16歳から65歳までの男はすべてマスケット銃と弾薬を配給され民兵活動の責を負った。
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