親政の開始と対仏政策
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「ヘンリー6世 (イングランド王)」の記事における「親政の開始と対仏政策」の解説
ヘンリー5世の死後、1429年5月のオルレアン包囲戦と6月のパテーの戦いにおけるジャンヌ・ダルクの勝利に始まるヴァロワ朝の失地回復の中、イングランドにおける百年戦争継続の機運は失速していた。フランス前線で指揮を執っていたベッドフォード公は何とか劣勢を覆そうと奮闘したが、イングランド領ノルマンディーで現地住民の不満や軍事費が嵩む赤字財政が増大してゲリラで身動きが取れず、同盟者のブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)もイングランドとの協力に消極的でネーデルラントの完全領有しか関心を示さなかった。おまけにグロスター公がネーデルラントを自分の物にしようと1424年に勝手に出兵、善良公と対立してベッドフォード公から軍事行動を停止させられる、善良公がイングランドに愛想を尽かしフランスへ接近していくなど事態はイングランド不利に傾いていった。 1429年から和平の動きが英仏間で見られ、1435年8月に北フランスのアラスでフランス・イングランド・ブルゴーニュの講和会議が開催された。しかし、英仏間で和睦内容に折り合いがつかず交渉は決裂、9月6日にイングランド代表団が引き上げると残ったフランスとブルゴーニュが会議を続け、14日にベッドフォード公が死去、1週間後の21日に善良公とシャルル7世がアラスの和約を締結してブルゴーニュはフランス支持を表明、百年戦争から離脱した。翌1436年4月にパリがフランス側に奪還され、続くフランスの反撃にもイングランドは有効な手を打てず、1441年までにパリを含むイル=ド=フランス・シャンパーニュをなすすべも無く失っていった。残る大陸領は北のノルマンディーと南西のアキテーヌ、北東のカレーだけとなっていった。 イングランドでも政界はグロスター公とボーフォート枢機卿の対立が生じ、ボーフォート枢機卿はグロスター公の権力制限を評議会に働きかけて実現、これに怒ったグロスター公は1422年からボーフォート枢機卿の弾劾や彼の派閥解体および自派の勢力拡大を企て、度々枢機卿への讒言やボーフォート派の評議会からの解任を試みた。ベッドフォード公は両者の対立を収拾すべく1425年と1433年の2度に渡りイングランドへ帰国して仲裁したが、1433年以後はボーフォート派の優勢となり、グロスター公は政界の影響力を失った。 母が亡くなった1437年にヘンリー6世は成年となって親政を開始したが、すぐに一握りの寵臣達(お互いに対仏戦争に関する方策で意見が対立している貴族達)に宮廷を好きにさせてしまった。若い国王はフランスとの平和政策を好むようになっており、同様の志向を持つボーフォート枢機卿、サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポールの派閥を贔屓にしていた。一方で、戦争の継続を訴えるグロスター公やヨーク公リチャードはないがしろにされ、1440年に和平派が取り計らったオルレアン公シャルルの釈放にグロスター公が反対したが押し切られ、1441年に後妻エレノアが国王呪詛の罪で終身刑に処されたグロスター公は宮廷出仕を禁止され権勢を失い、ヨーク公は1440年にノルマンディー総督に任命され同じく宮廷から遠ざけられ、ボーフォート派が中心の和平派がヘンリー6世の側近として実権を握った。
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