親政の開始
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「エドワード3世 (イングランド王)」の記事における「親政の開始」の解説
エドワード3世は成年に近づくにつれて母とモーティマーによる国政壟断に不満を抱き、親政を開始する機会を探るようになった。そして1330年10月にノッティンガムで諸侯の会議が行われている最中にモーティマーをクーデタ的に逮捕、モーティマーは11月末に召集した議会において絞首刑が宣告されて処刑された。母イザベラは見逃されるも政治から引退することとなった。 親政開始宣言において諸侯の助言を得て政治を行うことを宣言したため、貴族の支持を得た。在位中エドワード3世は基本的に貴族と良好な関係を維持できたが、これは対仏戦争という国際的な事情に加え、彼の寛大・寛容にして派手好きな性格があった。エドワード3世時代には少なからず伯爵家の創設が行われ、王子と王女の多くを国内の有力諸侯の相続人と婚姻させることで貴族の「王室の藩屏」化が推進されたためだった。 エドワード3世時代、特に重要な諸侯はランカスター伯、アランデル伯、ウォリック伯、マーチ伯(モーティマーの処刑で一度剥奪されているが、後に復活が認められた)、ヘレフォード伯(英語版)、ペンブルック伯の6家であり、彼らの協力を取り付けることはエドワード3世に不可欠なことだった。
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親政の開始
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「ルイ14世 (フランス王)」の記事における「親政の開始」の解説
1661年3月にマザランが死去するとルイ14世は親政を開始し、以後は宰相を置かないことを宣言する。親政期に行政機構の整備が行われ、ルイ14世は国の最高機関である国務会議から王太后や王族・大貴族を排除し、国務会議の出席者及び各部門の責任者に法服貴族を登用するなどして大貴族の権威を低下させ、新興貴族層やブルジョワ階層の登用で王権を強化した。ルイ14世の最高国務会議の出席者は3~5名程度のごく少数であり、長い治世を通しても全部で17名、その内の帯剣貴族は3名に過ぎない。サン=シモン公(英語版)はルイ14世の時代を「いやしいブルジョワどもの長い治世」と評している。また、1667年と1673年の王令で高等法院から建言権を取り上げ、高等法院の抵抗を排除した。 地方には父の代から行われているアンタンダン(地方監察官)派遣を続け、司法・財政・治安維持の権限を与え、時と共に人数を増大させて地方総督の大貴族や自治都市の権限を縮小させた。一方で地方の名士を監察官の補佐として登用させ、監察官の組織も整備、依然として勢力を持つ地方との折り合いも付けて支配の安定を図っている。 親政開始の象徴的事件が大蔵卿ニコラ・フーケの断罪である。フーケはマザランの腹心の一人で有能な人物ではあったが、職権を利用して莫大な私財を蓄えていた。これを知ったルイ14世は激怒してフーケを逮捕し、投獄した。 1665年に財務総監に任命されたのが、フーケのライバルであったジャン=バティスト・コルベールである。ルイ14世が親政を始めた時点で、フランスの財政は多年の戦費とフロンドの乱により破産しかかっていた。コルベールはより効果的な税制の運用を行い、国家の債務を削減した。主な税制には間接税(aides)、物品税(douane)、塩税(gabelle)そしてタイユ税(土地税:taille)がある。コルベールは貴族と聖職者の免税特権の廃止まではしていないが、税の徴収と運用方法を改善できた。 コルベールには貿易を通じてフランス経済を向上させる広範な計画があった。彼はいわゆる保護関税政策を取り、世界の銀の量は一定であるとの考えの元、輸入を減らして輸出を増やす政策を行った。彼は贅沢品の輸入を禁止または高い関税を課す一方で、輸出産業振興のために王立マニファクチュールの設立や輸出品製造業者を対象とした特権マニファクチュールを設けるなどこれを保護・育成する施策を講じた。また、1669年に海軍卿に就任したコルベールは海軍力の増強して、フランスを海軍大国に押し上げている。後にイギリス・オランダと貨幣戦争を引き起こすことになる彼の王室的重商主義はコルベール主義(コルベルティスム Colbertisme)と呼ばれている。彼はこの海軍力の保護のもとでイギリス・オランダの海外市場に割り込もうと、南アジアを対象とした東インド会社では亡命新教徒で長く日蘭貿易に携わったフランソワ・カロンを引き抜いて長官に据えた。そしてカリブ海を対象とした西インド会社を再創設、植民地を建設した。北アメリカの植民地が拡大され、ヌーベルフランス(カナダ)やアンチール諸島には総督が送り込まれて人口増殖政策と同化政策がすすめられ、ヌーベルフランスの人口は4倍に増えている。 ルイ14世は聖職者や大貴族を抑制するためにブルジョア層出身者を重用しており、主な側近にはコルベールの他に陸軍担当国務卿ミシェル・ル・テリエと外務担当国務卿ユーグ・ド・リオンヌがいる。また、ル・テリエの息子で同じく陸軍担当国務卿となったルーヴォワ侯は傑出した軍政家で、軍制の改革を行い国王直属の士官の人数を増やして連隊長だった貴族を牽制、兵舎の設立など後方支援の整備、国王民兵制(徴兵に近い兵制)による貴族を経由しない軍事力の獲得でフランス軍の質量両面の増強を成し遂げ、彼の作り上げた軍隊がルイ14世治世下で行われた幾多の戦争を支えることになる。 コルベールによってルーヴル宮の拡張がなされたが、1661年に狩り場の小館があったヴェルサイユの地に宮殿の建設を開始した。これがルイ14世の治世を象徴するヴェルサイユ宮殿となる。この地に宮殿を造営した理由は一般的にはルイ14世がフロンドの乱での苦い経験があるパリを嫌ったためともされるが、実際にはこれは理由ではなく彼は森と自然の地に自らの構想による新宮殿を造営することに拘ったためともされる。この地は水利が悪く、工事は難航して、一応の完成を見て宮廷が移り住むのは20年後の1682年のことになる。 ルイ14世は、負傷したり老齢化した、忠実に国王に仕えた将校のためのオテル・デ・ザンヴァリッド(アンヴァリッド、廃兵院)の建設を命じた。精神障害者・犯罪者・浮浪者対策として1656年に「一般施療院令」とその強化令が発せられ、労働をしない者を癩(らい)施療院だった建物を転用して収容した。その大規模な施設として、総合施療院、ビセートル病院(男性)、サルペトリエール病院(女性)の建設を指導するなど、公共の福祉にも関心を払っている。
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