親政と突然の崩御
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 17:22 UTC 版)
順治帝はまず内政の改革を始めた。当時、全国各地から名産品を皇帝に献上することになっていたが、これをいくつかの場所で止めた。また質の悪い官僚を追放し、官職の合理化を進め、税金逃れのために僧や道士になっていた者を還俗させた。また宦官が政治に関与することを厳重に禁止し、破れば即座に死刑とした。歴代中華王朝の衰退の大きな原因となった宦官の悪弊は、清代ではほとんどその姿を現さなかった。 順治16年(1659年)、鄭成功の北伐軍を跳ね返し、国内をほぼ平定した。 しかし、愛妃ドンゴ氏を亡くしてからは気落ちし、順治18年(1661年)に天然痘で急死した。24歳での若すぎる崩御に「順治帝は崩御なさったのではなく、本当は寵愛する妃(ドンゴ氏、孝献皇后と追号)の菩提を弔うべく出家して五台山で生きていらっしゃる」との説が生まれ、「孝陵(順治帝の陵墓)には、骨壷はあっても棺はない」とも噂された。その遺体は仏教に傾倒していた本人の希望で火葬されたようである。清東陵に陵墓がある。 廟号は世祖。「祖」の文字は、通常は漢の高祖(太祖高皇帝)劉邦など、王朝の始祖あるいは再建者に贈られる廟号であるが、順治帝は3代目であるにもかかわらず太祖に続いて贈られている。最初は慣例通り「宗」の字を当てようとされたが、北京遷都によって新しい国家を築いた点が考慮され、大司馬梁清標が「太祖ヌルハチは清朝開国の君であるが、フリンは満州帰属の入閣後の最初の皇帝である」と強く主張し、諸臣を説得した。
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